サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。サッカージャーナリス…

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。サッカージャーナリスト・大住良之が今回つづるのは、「最後の一座へ、地球を半周して」。

■消えたプレーオフ

 さて、大陸間プレーオフが今回を除いてホームアンドアウェーの2戦制なら、総試合数は当然偶数になるはずだ。しかし今回の2試合を加えて実際に行われた試合数は35。奇数である。1974年大会の大陸間プレーオフが欧州対南米で争われたとき、1試合しか行われなかったからだ。

 1974年大会の欧州予選エントリーは33。欧州に与えられた出場枠は「9.5」で、「3.5枠」の南米と大陸間プレーオフを行うことが決まっていた。欧州サッカー連盟(UEFA)は33チームを9組(4チーム×6組、3チーム×3組)に分け、乱暴な方法だが、3チームの組のひとつ、第9組勝者だけは「自動出場」とせず、最初から「南米とのプレーオフ出場」と決めた。抽選でその第9組にはいったのが、ソ連、アイルランド、フランスの3か国だった。ソ連はフランスとのアウェーの初戦を0-1で失ったが、最終戦でフランスを2-0で下し、首位でグループを終えた。

 一方、南米の予選出場国は8。10の南米サッカー連盟加盟国のうちベネズエラが棄権し、ブラジルは前回優勝国として予選を免除されていた。南米サッカー連盟(CONMEBOL)はUEFAと同じようなことをした。3チームのグループを2つつくり、残りの2チームを「第3組」として、勝者は欧州とのプレーオフをすることにしたのだ。第3組はペルーとチリ。両者はともにホームで2-0の勝利をつかみ、1973年8月5日にウルグアイのモンテビデオで決定戦を戦い、チリが2-1で勝った。

■国家間の駆け引き

 ソ連とチリの大陸間プレーオフは、9月26日にモスクワで、そして11月21日にチリのサンチャゴで行われることになった。だが対戦を前に、両国の外交関係は完全にストップしていた。

 チリでは1970年に誕生したサルバドール・アジェンデ大統領の社会主義政権がさまざまな改革を進めていたが、1973年9月11日、アメリカ政府に後押しされた軍部がクーデターを起こし、アジェンデ大統領を死に追いやってアウグスト・ピノチェト将軍を長とする軍事政権ができた。当然ながら、ソ連はこの新政権を認めなかった。

 チリの軍事政権は敵対する国(ソ連)で自国のチームが試合をすることに前向きではなかったが、新政権の下で国民が正常に活動していることを示すために遠征を許可した。ただし、選手団の誰も、絶対に政治的な発言をしてはならないと条件をつけた。とくに警戒されたひとりに、エースのFWカルロス・カセリ-がいた。彼は日ごろから社会主義的な発言を繰り返していたからだ。

■第1戦から始まった緊迫

 9月26日、ソ連政府はレーニン中央スタジアム(現在のルジニキ・スタジアム)での試合の開催を許可したが、報道陣、すべての記者とカメラマンの取材は認めなかった。ソ連政府がチリの選手を逮捕し、投獄中のチリの社会主義者との交換を迫るのではないかとの懸念もあったが、大きなアクシデントは起きず、試合は0-0で終了した。

 だが第2戦はついに幻となった。チリの軍事政権は9月末から全国を飛び回って社会主義者などを逮捕、拷問し、虐殺した。その数は当初72人と発表されたが、現在では犠牲者は4万人を超えたと認定されている。10月22日までに拷問・虐殺が行われた舞台のひとつが、首都サンチャゴの都心部に近い国立競技場だった。11月21日に大陸間プレーオフの第2戦が行われる会場である。

 第2戦は、チリの軍事政権にとって国の「正常化」をアピールする絶好のチャンスだった。それだけでなく、憎き共産主義者たち(ソ連)を打ち破る絶好機でもあった。ソ連は中立国での開催を求めたが、チリが拒否、FIFAも認めなかった。

■開始30秒で試合終了

 GOサインを出す前に、FIFAはサンチャゴに視察団を送り、国立競技場を検査した。しかし当時まだ7000人もの拘留者がいたにもかかわらず、彼らは検査が立ち入らない室内に隠され、視察団は「試合開催可能」の判断を下した。11月21日の試合を前に、拘留されていた人びとはアタカマ砂漠の劣悪な環境下の拘置所に移された。

 結局、ソ連は棄権を決める。ソ連の決定を支持したのは、ソ連の影響下にある東欧の国々だけだった。東ドイツは、ルーマニア、フィンランド、アルバニアと組んだ欧州予選の第4組を5勝1敗で突破し、ワールドカップ初出場を決めていたが、ワールドカップのボイコットさえにおわせてFIFAに中立地での試合をさせようとした。

 11月21日の国立競技場はまさに「茶番」だった。試合が行われないことは誰もが知っていたが、国立競技場には1万5000人ものファンがかけつけた。オーストリアのエーリッヒ・リネマイヤー主審がホイッスルを吹くと、チリがキックオフをし、誰もいない相手陣を進んで、最後はキャプテンのフランシスコ・バルデスがゴールに叩き込んで試合終了の笛が吹かれた。わずか30秒の出来事で、あとは2大会ぶり5回目のワールドカップ出場を祝うお祭り騒ぎとなった。

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