日韓W杯20周年×スポルティーバ20周年企画「日本サッカーの過去・現在、そして未来」レジェンドたちが語る日本サッカーの「…

日韓W杯20周年×スポルティーバ20周年企画
「日本サッカーの過去・現在、そして未来」
レジェンドたちが語る日本サッカーの「進化」
金田喜稔×木村和司 対談(1)



木村和司氏(左)と金田喜稔氏(右)。photo by Takahashi Manabu

――2002年ワールドカップ日韓大会から20年。今回は当時のことを振り返りつつ、それ以降、日本サッカーがどう成長し、進化してきたのか、といったテーマでおふたりに語っていただければと思っています。

金田「ワシね、日韓大会の開催が決まる前にFIFA(国際サッカー連盟)の本部に行っているんですよ。日本のサッカーファンの嘆願書というか、そういうものを持ってね。セルジオ(越後)とか、(松木)安太郎とかと一緒に。

 日韓大会の開催が正式に公表されたのは1996年の5月だったけど、当時"日本の単独開催"ということしか頭になかったから、正直"共催"となって、がっかりしたのを覚えている。だって、それまでのワールドカップは1カ国で開催されてきたんだから」

木村「共催?『何や、それ?』ってな」

金田「いろいろな事情があったんだろうけど......。まあ、そうは言っても開幕してからの1カ月間は楽しくて仕方がなかった(笑)」

木村「どこに行っても、ワールドカップ一色やった」

金田「近所の焼き肉屋とか飲み屋なんかに行っても、みんながワールドカップを見ていて、日本中が日本代表チームを応援してくれて。本当にお祭り騒ぎだった」

木村「ワシはテレビ解説を10試合くらいやったんかの。日本だけじゃなく、韓国にも行ったんよ。国内の半分くらいをず~っと回ってた」

金田「ワシも韓国に行ったよ。対戦カードは忘れてしまったけど、確か光州の試合だった。それまで、いろいろなところで焼き肉を食べたけれど、光州の焼き肉はうまかった。やっぱり本場は違う。そこはすごく覚えとるよ(笑)」

――現役時代の金田さんや木村さんにとって、ワールドカップとはどんな位置づけでしたか?

木村「まったくイメージにないよ」

金田「ワシも」

木村「韓国に勝たないと出られないという感じやったからの。ワシらの時は(韓国に)なかなか勝てなかったから」

金田「自分たちにとってワールドカップは別の世界。現実味がなかったよな」

木村「そう、オリンピックには出たいと思っていたけど」

金田「オリンピックがアマチュアの大会で、ワールドカップがプロの大会。そういう感じだったから。でも、1986年のメキシコ大会のアジア予選の時、一番(ワールドカップに)近づいたんじゃない? 韓国戦で、和司が直接FKを決めたりして、もう少しのところまでいった」

木村「まあ、近づいたと言えば、近づいたけどな。でも正直、韓国に勝てるという気がしなかった。韓国と日本の差はまだまだ大きかったよ」

金田「現役時代、韓国とは結構戦ってきたけどな。日韓定期戦とか、ムルデカ大会(マレーシア)とか。でも、日本は相手にされていなかった」

木村「ムルデカ大会と言えば、(日本代表の宿舎だった)ホテルのスタッフから『キンタサン、ヒサシブリ』って言われとったな。どこまで顔馴染みになっとるんよ?(笑)」

金田「ワハハッ。懐かしいの」

――ワールドカップ初出場にあと一歩のところまで迫ったという意味では、1994年アメリカ大会のアジア最終予選も忘れられません。「ドーハの悲劇」として、今でも語り継がれています。

木村「当時はまだ現役だったからな、『ワシを呼べよ』と思った」

金田「ラモス(瑠偉)も、監督の(ハンス・)オフトやコーチの清雲(栄純)さんに言っていたらしいぞ、『和司を呼んだら?』って」

木村「予選最後のイラク戦、すごく出たかったな。日本代表のために力になれたと、今でも思っとるよ」

――日本にとって悲願のワールドカップ初出場は、その次の1998年フランス大会でした。以来、毎回本大会出場を果たし、今年のカタール大会の出場権も獲得しています。今ではすっかりワールドカップ常連国のひとつです。

金田「日本サッカーのレベルが着実に上がってきた証拠でもある」

木村「海外に行ってプレーしている日本人選手がかなり増えたよな。そこが一番大きいんじゃないか。海外に行くだけじゃなく、チームの中心というか、そのくらいの存在になっている。それは、本当にすごいことだと思う。

 2002年の日本代表監督だった(フィリップ・)トルシエがよく『海外に行け、海外に行け』って言っとってな。トルシエのことはあまり好かんかったけど、言っていることは正しかったと思うわ。今や海外に行った選手たちが、そこでの経験を(日本代表や日本サッカーに)よう還元してくれておる」

金田「1970年代の後半だったと思うけど、1.FCケルン(ドイツ)の練習に参加させてもらったことがある。そこには1974年の地元開催のワールドカップで優勝した西ドイツの代表メンバーもいて、最初は『どうやろ』『やれるかな』と思ったけど、プレーしていくうちに『慣れたら、そこそこやれるわ』と。そう体感できたことが大きかったな」

木村「若い時にヨーロッパに行っていたら、ワシも同じことを感じたと思うよ。レベルの高い連中のなかで一緒にプレーすることで、刺激されて、自然にプレーの質が変わっていくから」

金田「今の日本の選手たちは海外のクラブに行って、ちょっと練習に参加させてもらっているというわけじゃなく、それこそ毎日、各国の代表レベルとやり合っている。そこでの経験値は本当に大きいし、しかもレギュラーをつかんでいる選手が多い。

 こういう実績を見れば、昔と今では日本のレベルが違ってきているのも当然。どんな相手に対しても怖気づかずにできる。正直、『すげぇな』と思うよ」


今や日本代表の大半が海外でプレー。レジェンドふたりは

「それが日本サッカーの進歩の証」と口をそろえる。photo by Sueishi Naoyoshi

――2002年ワールドカップの日本代表メンバーのうち、いわゆる海外組は4人でしたが、大会を重ねるごとに海外組が増えて、現在はほとんどが海外組。日本サッカーを取り巻く環境の変化に驚くばかりです。

金田「Jリーグが開幕した頃、ワシ、日本サッカー協会の強化部の仕事をしていたけれど、そこで、田嶋幸三(現日本サッカー協会会長)やキュウ坊(加藤久。現京都サンガ強化育成本部長)らと、『近い将来、海外でやっている選手たちが日本に帰国して代表ゲームをするような環境になるかな』なんて話していたよ。

 でも、まだ半信半疑。ところが、今は現実になったからな。それこそ、ヨーロッパにいる日本人選手だけで1チームが作れる。わざわざ長距離移動をしなくても、向こうで、コンディションがいい状態で強化試合ができる。そういうことを含めて、ずいぶん時代は変わったよ」

――日本の選手のなかで、最初にヨーロッパのクラブに移籍したのは奥寺康彦さんですね。

金田「そう、奥寺さんが1.FCケルンに行ったのが初めて。そのあと、尾崎(加寿夫)や(風間)八宏らがドイツのクラブに挑戦したけど、海外への扉を大きく開いたのはやっぱりカズ(三浦知良)じゃないかな。1993年にJリーグが始まって、その話題のなかで、イタリアに行った。

 最初はいろいろと言われていたようだけど、カズの挑戦が日本の選手の海外移籍の環境や意識を変えたと思うよ。だから、ヒデ(中田英寿)や(中村)俊輔も行けただろうし、今につながっているのは間違いない」

木村「日本の代表選手のほとんどが海外でプレーしているけど、成長するために、そういう厳しい環境に身を置くのは正しいよ」

金田「何はともあれ、今回は2002年日韓大会から20年というテーマだけど、ワールドカップに初めて出た1998年のフランス大会があっての2002年だし、1993年のドーハがあって、アメリカ大会に出られなかった経験があっての1998年。日本サッカーのワールカップの歴史を振り返れば、やっぱりそういう話になる。もっと言えば、ワールドカップに出られなかった時代から、すべてがつながっているんよ」

(つづく)

金田喜稔(かねだ・のぶとし)
1958年2月16日生まれ。広島県出身。広島工業高から中央大へ。卒業後、JSL(日本サッカーリーグ)の日産入り。主力選手として活躍し、数々のタイトル獲得に貢献した。日本代表でも屈指のドリブラーとして奮闘。国際Aマッチ58試合出場6得点。1991年に現役を引退。解説者、指導者として奔走する。現日本サッカー協会理事。

木村和司(きむら・かずし)
1958年7月19日生まれ。広島県出身。広島工業高から明治大へ。卒業後、横浜マリノスの前身となるJSLの日産入り。チームの司令塔として長年活躍した。日本代表でも「10番」を背負って奮闘。国際Aマッチ54試合出場26得点。1994年シーズンを最後に現役引退。その後、フットサル日本代表、横浜F・マリノスの監督を務めた。