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「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第25回 森徹・前編 (シリーズ記事一覧>>)

 歴史的価値のある「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズ連載。歴代プロ野球選手のなかでも1、2を争う腕っぷしの強さを誇り、格闘技界とも縁が深かった森徹(もり とおる)さんの話を前・中・後編にわたって紹介したい。

 東京六大学野球のスターとして中日入りした森さんは、2年目に二冠王を獲得するほどの活躍を見せながら、わずか4年でチームを去ってしまう。さらに移籍先でも実績を積み上げたものの、わずか33歳で不可解な引退。その背景にあったとされる一人の監督との不仲とは、どのようなものだったのか。



森徹の入団契約には力道山が同席、まさに大物ルーキーだった(写真=共同通信)

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 森徹さんに会いに行ったのは2005年7月。最初のきっかけはその9年前の1996年11月、ナゴヤ球場で行なわれた中日─巨人OB戦だった。一緒に観戦したドラゴンズファン歴40年のT氏が、「まさか、森徹まで出るとは。伝説の選手ですからね」と感激していて興味を持った。恥ずかしながら、僕はそのずんぐりとした体型の中日OBの名前さえ知らなかった。

 文献資料によると、森さんは1935年、旧満州(現・中国東北部)で生まれている。生家は料亭を営んでいて、現地に大相撲巡業で赴いた力士も来店していた。その力士というのが、まだ幕下以下、取的(とりてき)時代の力道山だった。

 のちに転身してプロレスラーとなり、日本中を沸かせた力道山が下級力士だった頃、森さんの母親の世話になっていた。同時に、11歳下の森さんを弟のように可愛がっていたという。後年には義兄弟の契(ちぎ)りまで結んだそうで、そのような逸話がある野球人も滅多にいない。これだけで興味津々となった。

 戦後、森さん一家は北海道に引き揚げ、やがて上京。高校は早大学院に進んだ森さんは柔道部に入部する。丸太のような腕と怪力ぶりが高校柔道界では有名だったそうだが、野球も掛け持ちしていたようだ。実際、早稲田大に進学後は柔道も続けながら野球部に入り、東京六大学リーグで活躍。2年時の春から3番を任されるほど打力に優れ、外野手としては強肩が魅力だった。

 当時の六大学では同学年の立教大・長嶋茂雄と並び称されるスターで、ホームランバッターだった森さん。いずれも58年にプロ入りし、長嶋は巨人、森さんは中日に入団する。両選手とも新人ながら開幕戦から出場したのだが、3番・サードの長嶋が国鉄(現・ヤクルト)のエース金田正一から4打席連続三振を食らったのはよく知られているとおり。

 対して、森さんは4番・ライトで出場すると、広島のエース長谷川良平からいきなり2ランホームランを放っている。持ち前の怪力に加え、相当の野球センスがないとできない芸当だろう。最終的に、同年は29本塁打、92打点で二冠王の長嶋が新人王になったが、森さんも23本塁打、73打点と1年目から立派な数字を残していた。

 翌59年、長嶋が首位打者を獲得した一方、森さんは31本塁打、87打点で二冠王に輝き、完全に中日打線の主軸となった。が、森さんが在籍したのはわずか4年で、61年オフにはトレードで大洋(現・DeNA)に移籍している。ゆえに中日ファンにとっては「伝説」なのだろうが、これは61年から就任した濃人渉(のうにん わたる)監督との確執が原因だったという。

 その後の森さんは66年、大洋から東京(現・ロッテ)に移籍。オリオンズ打線の主軸を務めるのだが、67年途中から濃人監督が就任すると、翌68年は7試合に出場したのみ。同年、33歳の若さで現役を引退している。これも確執が原因だったのかどうか、真相に触れた文献は見当たらなかった。いったい、両者の間にはどれほどの溝があったのか──。

 もっとも、僕が森さんに会いに行きたくなった理由は別のところにあった。引退後の69年、森さんは同年にアメリカで発足したグローバル・リーグに参加している。このリーグはアメリカのみならず中南米と日本を巻き込み、ナショナル・リーグ、アメリカン・リーグに次ぐ"第三のメジャー"を目指して立ち上げられたものだった。

 リーグの提唱者は、ウォルター・J・ディルベックというユダヤ系アメリカ人。インディアナ州エバンズビルで不動産業を営む"土地成金"で、当初はメジャーとの競合を避けるため興行地を中南米に求めた。その上で将来はグローバル=地球規模のプロ野球リーグに発展させるという、壮大な計画が基盤にあった。

 このときに結成された日本のチームが、東京ドラゴンズ。元プロ野球選手とアマ野球出身者でメンバーが構成され、森さんが監督(選手兼任)を務めた。ただ、4月にベネズエラで開幕したグローバル・リーグは活動資金の問題で早々に経営難となり、5月下旬には自然消滅する形で解散してしまった。

 それから36年が経過した2005年、〈米独立リーグのゴールデン・ベースボール・リーグに、日本人だけのチーム、サムライ・ベアーズが参加する〉というニュースが飛び込んできた。僕はこの情報を受けてすぐ、東京ドラゴンズを想起した。

 その一方、同年は日本でも初の独立リーグ、四国アイランドリーグ(IL)が誕生。にわかに、NPBだけがプロじゃない、という状況になっていた。先駆者とも言える森さんはこの状況をどう見ているのだろうかと思い、会いに行くことを決めた。

 取材場所に指定された都心の高層ホテル。記憶に残るOB戦のユニフォーム姿を頼りにラウンジを見渡すと、恰幅のいい男性に目が留まった。森さんだった。アロハのような柄物のシャツは意外な装いで、どこかエキゾチックな雰囲気が漂う。髪はオールバックになでつけられ、金縁の眼鏡にはアンバーの色みが入っていて、首回りと腕の太さと同様、容貌にも迫力がある。

 間近にすると、ずんぐりというよりがっしりとした印象があり、70歳(当時)とは思えない。視線は鋭く、挨拶を交わしたときも笑顔はなく、僕は緊張した。名刺交換を終えて取材主旨を説明する間、森さんは真剣な眼差しでうなずいていたが、「東京ドラゴンズのお話をうかがいたく」と言った途端、眉間(みけん)にしわが寄って、野太く、渋味のある声で質問は遮られた。

「みんな東京ドラゴンズって言うけどね、ドラゴンズなんて名乗ったことないんだよ、一回も。そういうニックネームなんかないんだもん、だいたい。だから、日本の東京チームだよ。ハポン・デ・トキオだ」

 取っ掛かりから、どの資料にもなかった事実が明らかになる。「ハポン」はスペイン語だから、現地の中南米ではそう名乗っていたということなのか。それにつけても、森さんの機嫌を損ねたのは由々しき事態......。失礼を謝りつつ、僕は質問内容を切り替えることにした。

 ハポン・デ・トキオは、元プロとアマ野球出身者で構成されたチームだった。NPB以外でも野球を続けたい選手のために存在したプロチームという点で、サムライ・ベアーズ、四国ILと共通している。歴史は繰り返す、ではないが、グローバル・リーグができたときのような動きと通じるところがあるのではないか。

「野球を続けたい選手にとってはいい傾向だよね。でも、全然スケールが違うよ。あのサムライ・ベアーズってのは、どっかの地方でやってるひとつのブロックのリーグでしょ? 我々が参加したヤツはグローバル。初めは一応、カリブ海を中心にしてスタートするんだけれども、将来は世界的なものにする、本当のグローバルにする、という大きな発想があった。

 オレはその発想に乗った。乗って、これはぜひやらないかん、と思った。危険は承知の上で、なぜやらないかんかったかというと、当時、プロ・アマの交流が完全に断絶してたわけね。これがいちばん大きな原因」

 グローバルの発想とプロ・アマ交流の断絶──。話が結びつかない。途端に、何をどう聞けばいいのか、わからなくなった。森さんは話を続けた。

「今、プロ・アマの関係が雪解け、というか、完全に解けて、高校野球以外はどんどん交流している。で、高校もこの7月から、初めてプロOBとの交流が始まるでしょ?」

 プロ側のスカウト活動が過熱したために、高校野球とプロ野球の交流は長く途絶え、球児たちはプロとの接触を制限されてきた。当然、プロOBによる高校野球指導も原則として禁じられてきたわけだが、03年に現役プロ選手によるシンポジウムが始まって以降、「雪解け」が進んでいた。その流れのなか、ようやく交流が始まることは知っていた。

「そう、まさにようやくだよね。それで我々、第一弾、記念すべき第1号として、1週間後、7月28日から北海道で指導するんだよ。名刺に書いてあるとおり、こっちは責任者だから、昨日もプロ野球OBクラブでミーティングをやったとこなんだ」

 高校球児を対象にしたプロOBによる技術指導講習会。森さんが中心になっているとは知らなかった。名刺には〈公益社団法人全国野球振興会(日本プロ野球OBクラブ)常務理事/認定事業推進委員会 委員長〉とあった。同委員会はプロOBの指導力向上のための仕組みを確立し、より優秀なアマ指導者を養成するために設置されたものだという。

「これでやっと、高校野球のほうも風通しがよくなった。ここまで来るのに何十年、プロ・アマの断絶が続いたかってね。結局、その断絶の引き金になったのがね、昭和36(1961)年の、中日の、柳川引き抜き事件なんだよね」

 いわゆる"柳川事件"のことだ。61年4月20日、中日球団が社会人野球の日本生命に所属する柳川福三(やながわ ふくぞう)選手と契約した。シーズン中の引き抜き禁止などを定めた協定をめぐってプロ・アマが対立するさなかだったために問題となり、以後、社会人野球側はプロ野球退団者の受け入れを拒否することになった。

「これはもう、中日の、大変な不名誉なことでね、勝手なことやってプロ野球界にもアマ野球界にも、そして柳川にも多大な迷惑をかけたんだよ。ところがね、その原因がね、自分自身にあるんじゃないか、ということがあるんだよね」

 眼鏡の奥の目がわずかに見開き、口元がふっと緩んでいた。苦笑ではあったが、初めて笑顔が見られて安堵する。しかし、いったいどういうことなのか、ますますわからない。

「というのはね、当時の中日の主力選手のうち80〜90パーセントが首脳陣に造反を起こした。中立派はいたけれども、賛成派は一人もいなかった。で、オレは反乱軍の大将って言われてたんだよ」

 造反──。濃人監督は61年に就任しているから、監督と森さんとの確執に何らかの関係があるのかも、と直感した。ただ、そのことと柳川事件がどう関係するのか。

「結局、反乱軍の大将、4番バッターがやる気なくしちゃったんだから。試合に出てもロクなバッティングできないし。これじゃダメだっていうんで、中日球団は急きょ、ノンプロの優秀な選手を引き抜いたんだね。社会人の、日本生命の選手を」

 そうだったのか──。過去に柳川事件の関連記事を読んだ限りでは、引き抜いた事実しか記されていなかった。なぜ、そこまで強引な行動に出たのか、背景について触れたものはなかったのだが、中日球団にすれば、シーズンを戦っていくための緊急補強だった。引き抜くには引き抜くだけの理由があったわけだ。その発端が森さんだったとは......。

「主力が普通にやっていたら、球団は引き抜く必要なんかないんだよね、だいたいが。それで引き抜いたはいいけど、いくら優秀でもノンプロはノンプロだよ。いきなりプロの4番として出るわけにはいかなかった。だから、あとに残ったのは、社会人野球からプロに送られた絶縁状だけだ。

 それまでは、プロを辞めたヤツがノンプロに行ってまたやれた。それで再生したら戻ってきたヤツもいる。非常にその点では、野球選手は助かっていたわけだけど、それが完全に切れちゃった。もう野球やりたくてもできないということで、心ならずも、野球界から消えていった元プロ野球選手はたくさんいたんじゃないかね」

 次第に口調がしんみりとして、視線の鋭さが消えていた。「ノンプロ」の柳川は入団から10日後、4月30日の広島戦、7番・サードでプロ初の先発出場を果たしている。が、7月以降にスタメンはなく、同年は33試合の出場に終わって打率.204。本塁打も打点もゼロ、という成績だった。



迫力ある風貌で話す、取材当時の森さん

「これは自分自身でそんなに深く考えることはなかったのかもしれない。自分は引き抜いた本人じゃないんだから、とは思ったけど、原因というかね、原因のひとつになったんじゃないかなあ、ちょっと申し訳ないなあ、という気持ちがあった。

 でも、あの頃、若かったからね。若いゆえの、融通の利かない正義感かな、そういうものが表に出て反乱を起こしちゃった。そのために、自分の野球人生もそこで終わったわけだよ。心ならずもね」

 森さんはそう言ってテーブルに肘をつき、両手を組んだ。「反乱を起こした」と言っても、4番もしくは5番で試合に出続けていた61年のシーズン。123試合の出場で打率.255、13本塁打、60打点。本塁打と打点はプロ4年目で自己最低の成績だった。

「プロで3年やって、ホントの自分の野球というのはそっから始まるとこだった。プロの水にも慣れて、いくらか七分咲きから八分咲きっていうぐらいまで行こうとする矢先だったのね。だから在籍11年っつったって、ホントに燃えてやったのは5〜6年かな。あとはもうチャランポランだよ。

 当時、豪打者だとか、大打者だとか、なんだかんだ言われたけど、終わってみたら1000安打も打ってねえじゃねえか、200本も打ってねえじゃねえか、というバッターよ。一時的にガーッとやって、凝縮されてたんだ」

 森さんはプロ1年目から3年連続、外野手部門でベストナインに選出され、2年目の59年から大洋時代の63年まで5年連続でオールスター出場を果たしている。ここまでの6年間で通算713安打、134本塁打と、まさに凝縮されているが、長嶋のように長続きできなかった。

「そういう面では不完全燃焼どころじゃない。全然、燃焼してないし、花開いてねえんだから。そりゃあ満開になりゃ、豪打者だったかもしれんけど、満開になる前に、七分咲きぐらいのところで、強烈な台風に飛ばされちゃったようなもんだね。はっはっは」

 力ない、渇いた笑いだった。言葉は投げやりでぶっきらぼうになっていた。「強烈な台風」こそ、反乱のもとになった濃人監督との確執を意味するのだろう。果たして、その原因は何だったのか。

「例えばねえ、金正日だとか、サダム・フセインだとかが監督になったら、ああいうふうになるのかなあ。人を殺しはしないと思うけど、プレーヤーとしては殺されちゃったもんな、結局は。正日もフセインも、来たら防ぎようがないよね」

 あまりにも極端な喩(たと)えに僕は一瞬、絶句した。

(中編につづく>>)