「日韓W杯、20年後のレガシー」#14 フローラン・ダバディの回顧録・第3回 2002年日韓ワールドカップ(W杯)の開催…
「日韓W杯、20年後のレガシー」#14 フローラン・ダバディの回顧録・第3回
2002年日韓ワールドカップ(W杯)の開催から、今年で20周年を迎えた。日本列島に空前のサッカーブームを巻き起こした世界最大級の祭典は、日本のスポーツ界に何を遺したのか。「THE ANSWER」では20年前の開催期間に合わせて、5月31日から6月30日までの1か月間、「日韓W杯、20年後のレガシー」と題した特集記事を連日掲載。当時の日本代表メンバーや関係者に話を聞き、自国開催のW杯が国内スポーツ界に与えた影響について多角的な視点から迫る。
ピッチ外でも話題に事欠かなかったフィリップ・トルシエ監督だが、そのなかでも一時期大きな注目を集めたのが、絶対的エースだった中田英寿との確執だろう。間近で2人のやり取りを見ていた通訳のフローラン・ダバディ氏が当時を振り返りながら、トルシエ監督にも常に意見を伝えていた中田の凄さについて語った。(取材・文=THE ANSWER編集部・谷沢 直也)
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フィリップ・トルシエ監督が日本代表を率いた1998年から2002年は、日本のサッカー史にその名を刻んだ中田英寿の全盛期と重なる。
日本代表の一員として21歳で98年フランスW杯に出場した中田は、大会後にイタリア・セリエAのペルージャへ移籍。各国のスター選手が集結し、当時「世界最強」と呼ばれたリーグでいきなり33試合10得点の成績を残すと、1999-2000シーズン途中に強豪ローマへ移籍。元イタリア代表FWフランチェスコ・トッティらとチームメートになり、翌2000-01シーズンには日本人選手として初めてセリエA優勝メンバーとなった。
スターダムを駆け上がり、短期間で世界的な名声を手にした中田に対し、トルシエ監督も当然大きな期待を寄せる。U-23日本代表で臨む2000年シドニー五輪に招集し、ベスト8に進出。A代表でも中核に据えると、01年3月に敵地で0-5と惨敗したフランス戦では、「サンドニ・ショック」と呼ばれた劣勢の試合の中で、中田はぬかるんだピッチをものともせず、ジネディーヌ・ジダンやティエリ・アンリといったスター軍団相手に1人気を吐いた。
しかし「トルシエと中田英寿」と聞いて、当時を知るファンの脳裏に真っ先に浮かぶのは、01年6月のコンフェデレーションズカップ準決勝オーストラリア戦後のチーム離脱と、それに伴う確執かもしれない。
あの時の2人が話したところで「折り合うはずがない」
W杯前年のプレ大会として日本で開催されたコンフェデ杯だが、欧州主要リーグのシーズンが終了しておらず、中田の招集を巡っては当初からセリエAで優勝争いを演じるローマが難色を示し、日本代表との間で微妙な空気が流れていた。トルシエは当然、代表監督として中田を最後まで起用することを主張し、一方の中田は日本人初のセリエA優勝の瞬間に立ち会うことを希望。溝が埋まらぬまま、最終的に準決勝後にイタリアへ戻ることになった。
そして豪雨のなか、横浜国際総合競技場で行われたオーストラリアとの準決勝で、中田は低弾道の直接FKを叩き込み1-0の勝利に貢献。チームをフランスとの決勝に導いた試合後、雨が降りしきるピッチ上で2人の“直接会談”が始まった。
通訳としてその場に立っていたダバディ氏は、「2人とも、お互いに怒っていた」と振り返る。
「なんとかして引き留めたいフィリップは、『100%中田が悪い』『エゴイストで、自分のことしか考えていない』と熱くなっていましたね。それに対して中田はもっと理性的で、『海外の人だってコンフェデを、そこまで重要な大会だと思っていないでしょ?』と冷静に話していた。
ただ、あの時の2人の立場、状況を考えれば直接話したところで折り合うはずがないんです。確かにコンフェデはそこまで重要な大会ではないけど、フィリップにしたら決勝でフランスにもし勝てば、日本にとって1年後のW杯へ向けてどれだけの自信になるのかと当然考える。相手もジダンはいないし、ベストメンバーではなかったから、そのチャンスもありました。一方で中田が、ローマの一員としてセリエA優勝の瞬間に立ち会いたいという気持ちも、僕には十分理解できた。日本サッカーの歴史の1ページになるわけだから、イタリアに戻りたいと主張するのも当然。結局そのまま折り合わずに、2人の関係性は一時冷え切ってしまった。日韓ワールドカップを前に修復されたけど、あの時、僕にできることはなかった」
コンフェデ杯で起きた確執はメディアでも大きく取り上げられ、指揮官とエースの対立はチームに不穏な空気を漂わせた。ただダバディ氏によれば、それでも中田の存在はトルシエ監督にとって「やりやすい選手だったはず」と振り返る。
「中田はフィリップや僕を、“外国人”と見ていなかったと思います。最先端の戦術論とか、監督の考え方に純粋に興味を持っていて、本当にフィリップと同じレベルに立ち、年齢差があっても全然萎縮しないし、同じサッカー仲間として話し合い、自分の意見も言っていました」
中田は異文化の人たちとの会話や考え方に「スッと入れていた」
トルシエ監督との信頼関係を構築する上で、選手が意見を持っていることは重要だったという。
「フィリップは選手から意見を言われた瞬間は不機嫌になったり怒ったりするけど、少し時間が経ち、それが理に適った意見だと感じれば、ああ見えて参考にするタイプだったんです。だから自分の意見を言わない選手のほうが、『何を考えているのか分からない』と判断され、損をしてしまう。
ある意味、あの時のチームで『唯一の大人』が中田だったと言えるのかもしれません。彼より年齢が上の選手はいたけど、外国人監督への理解というか、異文化の人たちとの会話や考え方にスッと入れていたのは凄いなと思いました」
欧州クラブで活躍する日本人選手がまだ少なかった時代。そのパイオニア的存在としてイタリアで結果を残し、道を切り拓いてきた中田は日本代表でも文字通りの大黒柱として君臨し、日韓W杯のベスト16進出に大きく貢献した。そんな絶対的エースの姿は、一時期の確執こそあったものの、トルシエ監督にとっては特別なものだったようだ。
(第4回へ続く)
■フローラン・ダバディ / Florent Dabadie
1974年11月1日生まれ、フランス・パリ出身。パリのINALCO(国立東洋言語文化学院)日本語学科で学び、卒業後の98年に来日し映画雑誌『プレミア』の編集部で働く。99年から日本代表のフィリップ・トルシエ監督の通訳を務め、2002年日韓W杯をスタッフの1人として戦った。フランス語、日本語など5か国語を操り、02年W杯後はスポーツ番組のキャスターや、フランス大使館のスポーツ・文化イベントの制作に関わるなど、多方面で活躍している。(THE ANSWER編集部・谷沢 直也 / Naoya Tanizawa)