カタールでワールドカップが開かれる2022年は、日本のサッカーにとって節目の年となる。地元開催となった日韓ワールドカッ…

 カタールでワールドカップが開かれる2022年は、日本のサッカーにとって節目の年となる。地元開催となった日韓ワールドカップから、20年を数えることになるのだ。その記念すべき大会は、日本サッカー界に何を残したのか。サッカージャーナリスト・大住良之が検証する。

■目に見えるレガシー

 目に見える「レガシー」はスタジアムだろう。日本と韓国はそれぞれ10都市に10のスタジアムを用意し、大会に備えた。1990年代前半までの両国のスタジアム状況が貧弱だったうえにFIFAの要求が非常に厳しかったため、全20スタジアムの大半が新設あるいは大改修だった。ほぼ「在来」のまま使われたのは、6年前の1996年に大改修が完了した大阪の長居スタジアムと、4年前の1998年にこけら落としの試合が行われた横浜だけだった。

 日本はできるだけ日本サッカー協会の9地域協会に割り振ろういう方針をとり(結果的には、四国と中国がはいらず、7地域となった)、「サッカー専用スタジアム」にこだわらなかった結果、10スタジアム中6つが陸上競技場型のスタジアムになった。一方韓国では、陸上競技場型は4つで、6つのサッカー専用スタジアムが新設された。

 全64試合(日本32、韓国32)に対し、それぞれ10スタジアム、計20スタジアムでは多すぎる。1スタジアムの平均はわずか3試合に過ぎない。ちなみに、ことしのカタール大会では、64試合に対し用意されたスタジアムはわずか8。どのスタジアムも、少なくとも7試合を開催する。だが、日韓両国とも「単独開催」で準備が進んでおり、ともに15のスタジアムが候補となっていた。試合数が半分になるなか、10までしか絞りきれなかったのだ。

■そろそろ時代遅れになるスタジアム

 大会ではそれぞれ数試合の舞台になっただけだったが、FIFAの規定によって少なくとも4万人の収容規模をもつこれらのスタジアムは、その後の日韓両国のプロサッカーの発展に大きく寄与した。2002年に始まり、昨年まで19大会行われたAFCチャンピオンズリーグACL)で韓国のクラブが6回、日本のクラブが4回と、合わせて全体の半数を上回る優勝回数を誇るのは、プロサッカーの最重要インフラとしてのスタジアムの存在に負うところが多い。

 ただ、スタジアムは永遠に続くレガシーではない。観客が求める快適さ、セキュリティー対策、さらには近年のスタジアムに不可欠な通信インフラの整備など、時代時代でスタジアムに求められる要素が変化し、建設から30年もたつと「時代遅れ」の感が否めなくなる。

 1963年にほぼ「最終形」になり、その後半世紀もそのまま使われた東京の旧国立競技場を持ち出さなくても、1988年のオリンピックのためにつくられたソウルのオリンピックスタジアムのことを考えてみればいい。オリンピックからワールドカップまで、わずか14年間しなかった。しかしこのスタジアムではとうていFIFAの要求に応えることはできず、完全に時代遅れになっていた。そこでソウル市はまったく違う場所にまったく新しいサッカー専用スタジアムをつくった。

 スタジアムの大半は大会の1年前、2001年に完成した。ということは、すでに完成から20年を超していることになる。私の「スタジアム賞味期限30年説」が正しいとすれば、魅力あるプロリーグを維持するためには、あと10年のうちに新時代に即した「バージョンアップ」が必要になる。

■松本が受けた恩恵

 ワールドカップ出場チームは、大会前から大会中にかけて開催国内で「キャンプ」を続け、そこから試合に出ていった。「キャンプ地」は、もしかしたら、スタジアム以上に日韓両国のサッカーに「レガシー」をもたらしたかもしれない。

 宿泊施設は既存のホテルを使えばいい。しかしキャンプ地のトレーニングピッチはスタジアムと同等、第一級のものでなければならない。日本国内では、そうしたサッカー施設(天然芝のサッカーピッチ)が決定的に不足していた。キャンプ地に立候補した全国84もの自治体は、そうした施設の整備を急いだ。実際に使われたのはその半数以下だったが、整備された施設は、その後のそれぞれの地域のサッカーの振興に大きな役割を果たした。

 最も顕著な成功例は、長野県松本市の松本平広域公園につくられた2万人収容のコンパクトスタジアムである。ワールドカップの開幕前にパラグアイ代表がここで10日間トレーニングを行ったが、大会後には、このスタジアムを舞台に地元の「町クラブ」をJリーグクラブにしようという動きが始まり、松本山雅FCが誕生した。チームはJ2で戦うシーズンが多い松本山雅だが、「アルウィン」と愛称がつけられたスタジアムはいつも熱烈なサポーターであふれ、松本市を中心とした地域に新しい文化と応援できるクラブがある喜びをもたらした。

 大会開幕前には、大分県の中津江村(現在の日田市中津江村)が大きな話題となった。ここでキャンプを行う契約をしたカメルーン代表の到着が予定より4日間も遅れたのだが、午前3時にようやく到着したチームを村総出で熱烈に歓迎した。この様子は日本人の寛大さや温かなホスピタリティーの証しとして世界にも伝えられた。中津江村とカメルーンとの友好関係や交流は大会後も続き、ワールドカップのような世界的な大会を日本で開催する意義のひとつを具体的な形で見せてくれた。

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