ケンドーコバヤシ令和に語り継ぎたいプロレス名勝負(4)後編(前編:蝶野正洋が武藤敬司と組んだIWGPタッグ戦で掟破りのパンチ攻撃>>) 蝶野正洋にとっての唯一の不穏試合、1990年8月に行なわれた蝶野正洋・武藤敬司組vsデストラクション・ク…

ケンドーコバヤシ
令和に語り継ぎたいプロレス名勝負(4)後編

(前編:蝶野正洋が武藤敬司と組んだIWGPタッグ戦で掟破りのパンチ攻撃>>)

 蝶野正洋にとっての唯一の不穏試合、1990年8月に行なわれた蝶野正洋・武藤敬司組vsデストラクション・クルー(ウェイン・ブルーム&マイク・イーノス)のIWGPタッグ戦。前編で、蝶野のヒールな一面が見えた反則について話したケンドーコバヤシさんは、その試合に残る謎、当時の「闘魂三銃士」のスター性や個性について語った。



IWGPタッグのベルトを掲げる武藤(左)と蝶野

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――(前編の記事で)この試合には解明できない謎があるとのことですが、それは何ですか?

「蝶野さんがキレてパンチを繰り出す原因になった投げ。ブルームはなぜ、あんな危険な投げを仕掛けたのか、ということです。これについては俺なりに、3つの仮説を立てています」

――聞かせてください。

「まず、『ブルームが意図的に危険な投げを仕掛けた』という説。まぁこれは、最も可能性が低いと思ってますけどね。というのも、ブルームは蝶野さんのパンチを食らったあと、元気がなくなってシュンとしちゃうんです(笑)。あの投げが意図的なものだったら、パンチをもらったあとに反抗したと思うんですよ。だけど、あの元気がなくなった姿は鮮明に記憶してるので、やはり可能性は低いんちゃうかと」

――あとの2つはどんな説ですか?

「2つめは『ブルームの投げが未熟だった』という説。そして3つ目が、『若き蝶野さんが観客をハラハラさせるために、投げられる時にのけぞったから危険度が増した。そして受け身を失敗したのをブルームのせいにした』という説です。(前編では)この3つ目の説を基本に話しましたが、この2つの仮説は自信が同じくらいで......。

 いつか、蝶野さん本人に聞きたいと思っていますけど、どの検証本、暴露本にも書いてないんです。前田vsアンドレの不穏試合もそうですが、この試合も解き明かしてほしい。いつも言ってますけど、俺の実家に試合を録画したVHSが残ってるんで、どっかでサルベージして公表せなあかん。それか、他に映像を持っている人がいたら、どういった形でもいいから世に出してほしいですね」

――ぜひ見たいですね。

「それで試合の映像を見られたら、蝶野さんが反則のパンチを繰り出したあと、ひとりで試合をまとめた武藤敬司さんのすごさも再確認できると思います」

――武藤さんには、どんな印象を持っていましたか?

「武藤さんはヤングライオンの時から大好きでしたね。高さがあるムーンサルトプレスを打っていて、『いい選手やな』と。それで、インタビューとかではボーッとした感じで話すし、面白みがあるレスラーだと思っていました」

――蝶野、武藤と共に「闘魂三銃士」と呼ばれた、橋本真也さんの印象も教えてください。

「橋本さんは愛すべき人でした。例えば、あれは『週刊プロレス』だったと思うんですけど、『俺は信長になる!』と、鎧と兜を身につけた写真が掲載されたことがあって。その兜が、ちゃんと入りきってなかったんですよ(笑)。有名なコメントの『時は来た』もそうですけど、永遠のガキ大将でしたね」

――3人は1984年4月の同期入門。それぞれ個性があって、ファンは惹きつけられました。

「奇跡の3人ですよね。この3人の性格がよく出ている写真があるんですが、それはいまだに忘れられません」

――どんな写真ですか?

「どの雑誌だったか覚えてないんですが、センターカラーで三銃士の特集をやっていて。そこで3人が、揃って『俺たちは道場の練習で多摩川の土手を走らされて。それが嫌で、後ろを走っていた』みたいな発言をしていたんです。それを読んだ時は『あの三銃士がそんなやる気のない練習態度なんて、ホンマか?』と疑ったんですけど......そのあと、新日本プロレスの選手全員で、道場のすぐ近くの多摩川沿いをランニングしている写真を見る機会があったんですが、本当に3人とも一番後ろを走っていたんです(笑)。

 思わず『本当に全然やる気ないやんけ!』ってツッコミましたよ。『あのコメントはウソじゃなかったんだ』と。練習態度としては、個人的にはいろいろ思うところもありますけど、根性論みたいなものを嫌がる3人だったんですね。

 さらにこの写真で見逃せないのは、悲しいぐらい(佐々木)健介さんが先頭を走っていたこと(笑)。人間関係もわかるというか......当時の俺は『3人は後ろで、健介について何かコソコソ言ってるんやろな』と想像してました」

――三銃士は新日本の生え抜きでしたが、佐々木健介さん、馳浩さんも、長州力さんが作った「ジャパンプロレス」でキャリアをスタートした選手でしたね。

「長州さんが新日本に復帰したあと、健介さんも馳さんもそれに続くんですが、新日本の"本流の血"を引いているのが武藤・蝶野・橋本の3人で、『健介、馳は外様』といういびつな関係でしたね。そこにコンプレックスがあった健介さんと、『お前ら3人とは育ちが違うんだ』という感じの馳さん。あの5人の関係性は面白かったです」

――確かに、三銃士と"馳健"のライバル関係は緊迫感がありました。

「ただ、素人の俺が言うのもアレですけど、持って生まれたオーラ、スター性、体格、運動神経、人を引きつける行動......そういったポテンシャルは三銃士がズバ抜けていたように思います。面白いのは、今となっては蝶野さんも武藤さんも、石川県知事で文部科学大臣も務めた馳さんのことを『馳先生』と呼んでいること。時の流れを感じますね」

――蝶野さんに話を戻しますが、ヒールターンしてブレイクしたのは1994年の「G1クライマックス」で3度目の優勝を果たしたあとでした。デストラクション・クルーとの不穏試合でヒールの一面を見せてから4年もかかっています。

「自分の魅力や個性は、自分自身ではなかなか見つけられないということでしょう。それは俺も、芸人になってからある先輩芸人に気づかされました」

――どんなことがあったんですか?

「大阪時代に『うまいこといかんな』と壁にぶち当たっていた時期に、メッセンジャーのあいはら(雅一)さんから『お前、ええな。うらやましい』と声をかけられたんです。それで『何がですか?』と聞くと、『好き勝手やって人気あるわけでもないのに、舞台にお前が出てきたら、お客さんはみんなお前を見てるやん』と。

 その言葉で『そう言われてみれば、よく見られてるかも』と気づいて、目の前にあった壁がなくなったんです。あいはらさんに言われなければ、気づかないままだったかもしれない。蝶野さんもおそらく、誰かの言葉で"白"から"黒"へ転向する気づきがあったんだと思いますよ。あとは、選手会サイドの選手だったこともブレイクが遅れた原因でしょうね」

――選手会サイドの選手であったことでどんな影響が?

「どうしても体制派の印象から抜け出せませんでしたよね。俺個人としては、『そもそもプロレス界に選手会は必要なのか』とも思います。芸人の世界にもないですけど、その中で暗黙の規律を守りつつ、好き勝手にやるのがいいんです。まぁ、その規律を守れない人がいるから選手会があるんでしょうけど、蝶野さんのブレイクが遅れた最大の原因だと、俺は思っています」