神野プロジェクト Road to 2020(1)2017年4月、日本陸連は東京五輪男女マラソン選手の新しい選考方式を発表した。東京五輪マラソン代表の枠(男女各3名)を獲得するには、マラソングランドチャンピオン(MGC)シリーズのレースを…

神野プロジェクト Road to 2020(1)

2017年4月、日本陸連は東京五輪男女マラソン選手の新しい選考方式を発表した。
東京五輪マラソン代表の枠(男女各3名)を獲得するには、マラソングランドチャンピオン(MGC)シリーズのレースを走って結果を出し、さらに2019年9月以降に開催される一発勝負のマラソングランドチャンピオンレースで男女とも上位2名に入らなければならない(残りの男女各1名は、MGCレース後に行なわれる3大会のタイム最上位者)。これから日本のマラソンランナーたちは、3席の椅子を巡ってしのぎを削ることになる。
神野大地は、その椅子を狙っているひとりだ。
青山学院大学時代は、「3代目・山の神」と称され、青学の箱根駅伝初優勝、2連覇に大きく貢献した。コニカミノルタに入社してからはマラソンに転向。そして2017年、東京五輪でメダルを獲得すべく神野は新たなスタートを切ったのである。

 2017年4月―――。
 
 朝9時、東京にあるトレーニング施設・スポーツモチベーションでは中野ジェームズ修一がこれから行なわれる神野大地のトレーニングの準備をしていた。
 
 4月から中野は神野と専属トレーナー契約を結んだ。実際には昨年、神野が青山学院大学を卒業した後も継続してサポートしていたが、東京五輪に向けて本格的に始動するにあたり、二人三脚でやっていくことになったのである。




中野ジェームズ修一氏の指導を受ける神野大地

 まず、中野に聞きたかったのは、神野をどのように強化し、東京五輪までのプランニングをどう考えているのかということだった。

「今、神野が取り組んでいるのがループ、レイヤートレーニング、そして全体をリンクさせてコントロールするトレーニングです。
 
 まず、ループですが、その前提として肋骨と骨盤をしっかりと支えるためにインナーユニットを強化し、さらにアウターユニットを鍛えて安定させてきました。それができていないとループをやっても無意味になります。『ループ』とはコアトレの一種なんですが、考え方はビルの耐震設計と同じです。ビルの耐震強度を高めるためには斜めに筋交いを入れて補強していきますが、体も同じで斜めに補強を入れていき、骨盤と足をしっかりつなげて安定させていくんです」

 なぜループが必要なのかを問うと、神野の足を強化したいからだという。

「五輪のメダリストになるには、最大酸素摂取量(VO2マックス)が80を超えていないと難しいんですが、神野は82あるんです。すでにメダルを獲れるポルシェ並みの心肺機能があるんですが、足はまだ軽自動車なんですよ」

 一般的に足の筋肉における遅筋繊維と速筋繊維の割合は50%-50%と言われているが、長距離のトップレベルの選手は遅筋繊維60%-速筋繊維40%と差が生じており、神野もそうだという。しかし、現状では筋持久力がまだまだ足りない。神野自身も2月に青梅マラソンを走って、そのことを痛感したという。ただ、速筋繊維はいくらトレーニングをしても遅筋繊維には変わらないので、速筋繊維を少しでも中間筋にしていく作業が必要になる。

「そのためのプログラムが『レイヤートレーニング』です。低負荷で回数をこなすトレーニングで足の筋力をアップし、筋持久力を高めていく。ようするにマラソンを走れる足を作るということです」
 
 ループでコアをさらに鍛え、レイヤーで足の筋持久力を高めていく。そこで重要になってくるのが、それぞれ鍛えたブロックをリンクさせてコントロールする術だ。

「レイヤーで鍛えた足の筋肉を動きの中で使えるかどうかはまた別問題なんです。足と脳をしっかりとリンクさせて体を動かし、コントロールすることができないと、いくら足を作ってもいい走りができない。逆にそれができれば、可能性が広がります」
 
 作った筋肉をなじませ、自由に動かせるようになるには、それなりに時間がかかる。しかも、やったからといってすぐに結果が出るかどうかはわからない。

「体をマラソン仕様に作り直していくのは簡単にはうまくいかないし、最初はパフォーマンスも上がらない。だから、今年1年はそんなに結果が出ないと思います。問題は、それに耐えられるかどうかですね。その時、重要になってくるのがお互いの信頼関係です。結果が出なくても、この人についていっても大丈夫という相互信頼があれば、うまくやっていけます。もちろん、その自信はあります」

 神野のマラソン仕様への改造はトレーニングだけにとどまらない。プロジェクトをスタートさせる前、神野は人間ドックに入り、メディカルチェックを受けた。一般人では何の問題もない数字でもオリンピアンレベルで判断し、低い数字の箇所は改善するようにした。さらに食事や体重管理、サプリメントの摂取などもチェックした。それだけの準備をプロジェクトがスタートする3ヵ月前から行なってきた。

「だから今、これだけ強度のあるトレーニングができているんです」
 
 中野は自信に満ちた表情で、そう言った。

 スポーツモチベーション内にあるトレーニングルームでは、神野が全体をリンクさせるためのトレーニングについてレクチャーを受けていた。今日は、そのトレーニングの初日になる。

 ステップ台の上に右足を置いた状態でジャンプし、30秒で左足に切り替える。最初は数回ずつだが、徐々に時間を長くして回数を増やしていく。インターバルは5分間。単純な動きのトレーニングだが負荷がかかる。シャツは汗で濡れ、パンツは「走っている時よりもビチョビチョです」と、神野は苦笑した。

 時間が長くなるとジャンプ力が落ちたり、動きが小さくなってくる。

「パフォーマンスを落とさない。キツくなっても自分の体をコントロールしていく」
「小さな体を大きく使おう。地面を蹴って体を前に出す」
 
 ハァハァと息遣いが荒くなる神野に中野の檄が飛ぶ。言葉に反応し、言われた通りの動きに神野は修正していく。

 5分…7分…10分が過ぎた。ステップ台の下には飛び散った汗が大きな溜りになっている。13分で終わり、神野は大きく息を吸い、水分を補給した。
 
 それが終わるとステップ台を挟んで立ち、ジャンプして台に登り、降りる。それを2分間続ける。シンプルだが、やってみるとかなりしんどい。約1時間ちょっとのトレーニングが終了した。

「キツかったですね」

 神野は、そう言って苦笑した。

「ループやレイヤーをやることで速くなるのかなって思っていたんですが、今日全部がつながって動かせるようにならないと意味がないと言われました。確かにそうだなって思いましたし、今日のような練習も今後、重要になってくると思います」
 
 中野とは青学時代からの付き合いで卒業後もスポーツモチベーションでトレーニングを継続してきた。ここに至り、改めて正式に中野とタッグを組んだ理由はいったい何だったのだろうか。

「僕の目標は東京五輪のマラソンに出場してメダルを獲ること。ただ、僕は人と同じ練習をやっても上にはいけない。人のやらないことをやらないと、上にはいけないと思って陸上をやってきたんです。今回もそう。中野さんとやるとキツいトレーニングが山ほど待っているんですけど、少しでも『これやって強くなれるのかな?』っていう気持ちがあったらできないと思うんです。中野さんの指導であれば、その迷いがないですし、それをやり切れば五輪に近づける。それに『神野と金メダルを獲りたい』って言ってくださったことも自分の中に響きましたね(笑)」

 中野は五輪でメダルを獲得するアスリートには、いくつかの共通点があるという。そのひとつが、自分がより強くなるためにはどういう環境が必要なのかを考え、行動に移せるということだ。アスリートは同じコーチが長年指導していくケースが多い。それはプラス面もあるが、情が邪魔してそのままズルズルというパターンも多いという。

 その点、強くなる選手は、「あなたからはもう学ぶものがないから代わってもらいます」と、ハッキリと言い、次のステップに向かう。神野も自分の選手生命には限りがあると思っているので、強くなるためには躊著しない。それが今回、中野との契約に至った理由のひとつでもあると思う。
 
 トレーニング後、神野は両膝と右アキレス腱にアイシングをした。アキレス腱痛は3月半ばの日本陸連のニュージーランド合宿中に発症したものだ。そのために合宿中はほとんど走ることができなかったが、逆に中野からもらったレイヤートレーニングのメニューをこなすことができるなど、いろんな収穫があったという。

「海外合宿のいい面、違う面の両方をこの時期に見られたのはよかったです。個人的には泥臭く日本でやっている方が合っているかなと思いました。あと、与えられたトレーニングもできましたし、瀬古(利彦)さんが来て、いろんな話をしてくれたのはよかったです。特にタメになったのは気持ちの面ですね。より覚悟を持ってやらないとマラソンの成功はないなと思いました」

 期間中、特別なミーティングはなかったが、朝・昼・夜の食事の時に瀬古とさまざまな話をしたという。そこで印象に残った言葉は携帯にメモったが、神野の心に刺さったのはこのフレーズだったという。

“マラソンにホームランはないぞ”
 
 マラソンには一発当たるようなまぐれはない。マラソンはスポーツで一番キツく、厳しい。だからこそ一番キツい練習をしないといけない。そうして地道に努力した者が喜ぶことができるスポーツだ。

 神野は、半端な気持ちではマラソンをやれないと改めて強く感じたという。

「あと、35km付近になって相手と競った時、これだけやったという自信が大事になってくると教えてくれました。そういうオーラが相手に伝わり、相手は『こいつ、まだ走れるのか』とダメージを受ける。瀬古さんはそういうオーラを発して宗兄弟に勝ってきたと言っていました。瀬古さんは100kmジョグとかをやってきて、それが自信になったそうですが、僕は今、瀬古さんが当時していなかったフィジカルトレーニングを積んでいますし、ケアも十分にやっている。それにプラスして泥臭く走りのトレーニングをしていくことで瀬古さんのように結果を出せると思っています」
 
 東京五輪に出場するためには福岡国際マラソン、東京マラソン、びわ湖毎日マラソン、大分別府毎日マラソン、北海道マラソンのいずれかを走って結果を出し、さらにマラソングランドチャンピオンレースに勝たないといけない。複数回での結果が求められる二段階方式で代表選手が決まるので、一発屋でなく、より安定した力が求められる。

「中野さんには、『東京五輪に出るためには最低2本、結果を出さないといけない。1本まぐれで走れて選ばれたという選考にはならないので、より普段からケアに時間をかけている選手じゃないと2本結果を出すのは難しい。それなら神野にチャンスがあるんじゃないか』って言われました。僕はケアを人一倍やっているし、2本しっかり走れる自信がある。この選考は自分に有利かなって思います」

 中野は、その選考方法が自らのやる気を駆り立ててくれているという。

「東京五輪は、体の調子の出来不出来で揺れ動いているレベルじゃ話にならない。コンスタントに安定して走れる選手にならないと勝てない。そのためには圧倒的なフィジカルの強さがある選手を作っていかないといけない。それはフィジカルトレーナーとしてギアが入るというか、やってやるという感じになりますね」
 
 中野は楽しみで仕方ないという表情を見せた。
 
 東京五輪に出て、メダルを獲るという目標を明確にし、目標へのプランニングも大枠では完成している。今後トレーニングの進行具合や神野の状態により、変更修正を加えていくことになる。ところで東京五輪の時を100%と考えると現時点で、神野はいったいどのくらいの完成度なのだろうか。

「昨年からの流れで今、20%ぐらいですね。このレベルではメダルは狙えない。まず12月の福岡国際マラソンまでに30%にしていく。そうして、最終的にはメダルを獲れると信じています」

――2020年東京五輪のマラソンでメダルを獲る──。
 
 人生を賭けた大きな目標を達成すべく、神野のプロジェクトがスタートした。