日韓W杯20周年×スポルティーバ20周年企画「日本サッカーの過去・現在、そして未来」私が語る「日本サッカー、あの事件の真…
日韓W杯20周年×スポルティーバ20周年企画
「日本サッカーの過去・現在、そして未来」
私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第17回
「運」をつかんだ男が躍動した熱狂の日韓W杯~戸田和幸(1)
2002年日韓W杯でボランチとして全4試合にフル出場。日本のグループリーグ突破に貢献し、高い評価を受けた戸田和幸。赤いモヒカンのヘアスタイルで、プレー同様にその容姿でも存在感を際立たせていたが、日本代表でフィリップ・トルシエ監督の信頼を得て、チームの中軸になったのは、W杯開催の1年前だった。
2001年のシーズン開幕前、所属する清水エスパルスでいきなりボランチにコンバートされたことが、日本代表入りにつながった。
「それが、自分のターニングポイントになりましたね」

2002年W杯について振り返る戸田和幸氏
各世代別代表でもセンターバックとして奮闘した戸田は、清水でもそのポジションでレギュラーの地位を確立していた。
ところが、2000年シーズンまでチーム不動のボランチだったカルロス・サントスがヴィッセル神戸に移籍。伊藤輝悦とコンビを組む相方の選定が急務となった。そこで、当時の指揮官ゼムノビッチ・ズドラブコ監督はいろんな選手を試したが、うまくハマる選手がおらず、最後に声がかかったのが、戸田だった。
「ゼロックス・スーパーカップの前だったんですけど、いきなり言われました」
その時、戸田は「ほら」と思ったという。
実は、前年の契約更改の際、サントスの移籍で空いたボランチのポジションはどうするのか、戸田はフロントに問いただしていた。クラブ側からの回答は「若手の誰かが......」というものだった。
その答えを聞いて、戸田は「チームのへそだぞ。(若手が簡単にできるような)そんなポジションじゃねぇ!」と大きな不安を抱いた。そして実際、キャンプインした時にその問題が露呈。チームはボランチ探しに四苦八苦し、最終的に戸田にたどり着いた。
「消去法で最後に(自分のところに)きたな、という感じだったので、最初はかなり強くお断りしました。監督は自分の起用に責任をとると言っていたけど、その責任のとり方って、あくまでも監督の都合にすぎない。(うまくいかなければ)僕を外して、元に戻すだけなんですから。
僕は今、指導者をしていますが、もし選手をコンバートさせるとしたら、一定期間を設けて、必要な考え方や情報を与えて、トレーニングをする時間もしっかり与えてから『最終的に、どう?』と選手に判断させます。
でもその時は、準備期間も何もなく、(自分は)どうプレーしていいのかもわからない。それで試合に出て、いいパフォーマンスができず、チームとして機能しなかったら大変なことになりますし、そもそも僕はセンターバックとして生きていくつもりだったので、やりたくなかったんです」
しかし、戸田に選択肢はなかった。チームの指揮官は、絶対的な存在である。そこで言い争ったところで、勝てはしない。ボランチ起用に不満ならば、ベンチに座るか、クラブを去るしかない。
そもそも戸田には、大好きなフットボールを続けるため、プロになるため、自分に言い聞かせてきたことがあった。
「僕はプロになるのが目標だったんです。でも、自分のやりたいことをしていてもプロになれないと思っていたので、高校からは自分のやりたいプレーは一切していないんです。自分のスタイルやポジションで生きていく選手がいますけど、自分はその(レベルの)なかに留まるために、必要とされるところで必要なプレーをする。プロに到達するためには、そこで生き残るためにはどうすればいいか、というマインドで高校からはプレーしてきました」
中学から桐蔭学園高に行く際にそのマインドがセットされ、プロとなってからもその気持ちでプレーしてきた。それゆえ、このコンバートも最初は断ったが、プロとして生きていくために受け入れた。
「まず、ボランチというポジションについて勉強しました。もともと自分はメインプレーヤーじゃないですし、周囲の選手の特徴を見て、自分が何をすればいいのかを常に考えています。ただ結局は、ボランチでもセンターバックでやっていたことをやっただけです。
自分のテリトリーに入ってくる選手の自由を奪う。相手に嫌がられる存在になる。(味方が)ボールを失った瞬間、どれだけ自分のところで(相手の)攻撃を遅れさせられるか、ボールを奪えるか。ボールを奪ったら、早く、正確にフリーの選手やメインの選手につなぐ。余計なことはせず、普段やってきたことをポジションに合わせて、うまく対応できればいいんじゃないかと思ってプレーしていました」
リーグ戦が始まると、鬼気迫る表情で相手に食らいついた。名古屋グランパス戦ではドラガン・ストイコビッチに激しく当たってキレられたが、戸田は何事もなかったかのようにプレーを続けた。
「あれは、自分なりの相手へのリスペクトです。ピクシーさんには怒られましたけど、世界のトップ選手を相手にルールの範囲内でフェアにやっていたら、止められるはずがない。僕は、自分の存在意義とチームのためにできることをやっていて、それで相手が怒るなら、僕はいい仕事をしたんだなって、思っていました」
戸田はチームのために、ファールをして相手を止めることも常に選択肢のひとつにあった。"3K"的な仕事をするのが自分の生きる術だと考えていたからだ。
そんな戸田の泥臭い、職人のようなプレーに日本代表のトルシエ監督も注目した。
当時、日本代表は2000年のアジアカップで優勝。2001年3月に勇躍フランスに乗り込んで、前回(1998年)のW杯覇者であるフランス代表に挑んだが、コテンパンにやられて0-5と大敗を喫した。そのチームの立て直しのため、トルシエ監督はハードな守備を見せていた戸田に白羽の矢を立てた。
残念ながら4月のスペイン戦には発熱のため出場できなかったが、5月のコンフェデレーションズカップ(以下、コンフェデ杯)でチャンスを与えられた。そこで戸田は、清水での経験を生かしてスムーズにチームに順応した。
「(2000年の)シドニー五輪前までトルシエさんのところでやっていたので、やり方はわかっていましたし、ボランチでは清水で横に伊東さん、前にノボリさん(澤登正朗)がいるなかでやっていた。代表に入っても、横に稲本(潤一)、前にヒデさん(中田英寿)がいて、(清水でやっていることと)似た部分があったので、求められる選手像という部分ではハマりやすかったです」
コンフェデ杯で4試合に出場し、トルシエ監督の信頼を勝ちとった戸田は、稲本とのコンビでボランチのレギュラーに定着した。前に出て攻撃参加する稲本、後方で守備を請け負う戸田。役割分担が明確で、ふたりのプレーに迷いは一切なかった。
最終ラインとの連係も、中央で統率する森岡隆三とは同じ清水でプレーしていたため、問題はなかった。だが、最終的にW杯メンバーが発表されるまで、戸田は気が気ではなかったという。
「自分にとっては、代表の試合は毎試合、(ここで)生き残るための試験で、いつもピリピリしていました。(W杯メンバーの)23名の枠に入れるかどうかで人生が変わるので、相当な緊張感がありましたね。というのも一度、(メンバー入りできるかどうか)危ないなって思った時があったからです。2002年5月のノルウェー戦、僕はスタメンから外れているんです。
その前に、土砂降りのなかで行なわれたレアル・マドリードとの試合で負けて、そのあとのノルウェー戦で(先発を)外された。ここが分岐点だな、というのはよくわかっていた。後半から試合に出場したんですけど、特によかったわけでもなかったので、(メンバー発表までは)かなり不安でしたね」
しかし、その不安は杞憂に終わった。戸田は23名のW杯のメンバーに生き残り、2002年6月4日、埼玉スタジアムで行なわれたW杯初戦のベルギー戦のスタメンに名を連ねた。

2002年W杯初戦のベルギー戦に挑んだ日本代表。後列一番左が戸田。photo by AFP/AFLO
ロビーに両チームの選手が集合。会場全体にFIFAのアンセムが流れた。超満員の埼玉スタジアム。その熱気は過去に経験したことがないものだった。
「ピッチに入場していくんですけど、その時、凄まじいテンションを感じました。それまでにも満員の横浜や埼玉でプレーしたことがあったんですけど、まったく違うんです。ちょっと日本的じゃないというか、スタンドのファンも目が血走っていて、『戦いにきているんだ!』という雰囲気を生まれて初めて感じました」
ピッチ上には髪を赤色に染めたモヒカンスタイルの戸田がいた。やるからには目立つんだという気持ちと、この頭でベンチにいたら恥ずかしいという気概。自らにハッパをかけるために整えた。
日の丸をつけて戦うことは特別なこと。国歌斉唱では気持ちがたかぶった。
「ポーランドとのアウェーでの試合(2002年3月)があったんですが、僕の中学時代からの友人がオーストリアでプロのオペラシンガーになっていて、その時の試合を見にきてくれたんです。試合前の国歌斉唱の際、スタンドを見ると彼がボロボロと泣いているんですよ。海外で聞く国家に気持ちがたかぶったと思うんですが、(ベルギー戦では)その時のことを思い出しましたし、僕も(国歌を聞いて)力をもらいました」
両チームがピッチに散った。
戸田にとって、初めてのW杯が始まった――。
(つづく)
戸田和幸(とだ・かずゆき)
1977年12月30日生まれ。神奈川県出身。桐蔭学園高を卒業後、清水エスパルス入り。主力選手として活躍した。各世代別代表でも奮闘し、1993年U-17世界選手権、1997年ワールドユースに出場。2001年には日本代表入りを果たし、2002年W杯に出場した。W杯後は海外へ。イングランドのトッテナム、オランダのデン・ハーグでプレー。2004年に古巣の清水に復帰するも、2005年には東京ヴェルディに移籍。以降、サンフレッチェ広島、ジェフユナイテッド千葉などでプレーし、2013年シーズン限りで現役を引退。現在は、東京都社会人リーグのSHIBUYA CITY FCのテクニカルダイレクター兼コーチを務める。