パウロ・ロベルト・ファルカンインタビュー(1)「ドーハの悲劇」を経て、ブラジルサッカー界の英雄のひとりであるファルカンが…
パウロ・ロベルト・ファルカンインタビュー(1)
「ドーハの悲劇」を経て、ブラジルサッカー界の英雄のひとりであるファルカンが日本代表の監督に就任したのは1994年のこと。短期間で終わった挑戦だったが、日本への郷愁は強く、なかなか当時のことを話す気持ちになれなかったという。日本のメディアのインタビューに応じるのは約20年ぶりだそうだ――。
私が日本代表の監督に就任してから、この3月で28年が経った。しかし、私にとってはまるでつい先日のことのように思える。決して長い滞在ではなかったが、日本での日々はそれほど鮮やかで印象深かった。
1993年に日本がアメリカW杯出場を逃した直後、私の知人が東京でJFA(日本サッカー協会)の人間と話す機会があった。それから数日後、日本から私に直接電話があり、「日本代表監督の候補に入っているので、その可能性について話し合いを持ちたい」と言われた。
それを聞いた時の私の最初のリアクションは、正直「驚いた」だった。なぜなら日本人は南米の監督ではなく、ヨーロッパの監督を好むと思っていたからだ。しかし、最初の驚きが過ぎると、それは"嬉しい"という気持ちに変わっていった。

1994年、日本代表監督に就任。フランス戦で指揮を執るファルカン(右) photo by Yamazoe Toshio
私はジーコから日本のいいところをさんざん聞かされていたので、日本にはとてもいい印象を持っていた。日本人は誠実で秩序を守り、時間を守り、日本では物事がすべてスムーズに動くと言っていた。私はブラジル南部の出身だ。日本の皆さんにとって、ブラジル人はみんな一緒かもしれないが、南部の人間は北部に比べるとずっと真面目で勤勉だ。だから日本のこういった点には非常に好感を持てた。JFAから提示された条件も悪くはなく、「OK、まずは詳しく話を聞いてみよう」と思った。
しばらくして私に電話をしてきた人物が、話し合いのためにブラジルにやってきた。私はこの時、日本人というものにとても驚いた。彼は日本からサンパウロで飛行機を乗り継ぎ、私の住むポルトアレグレにやってきた。空港に着いたのは午前11時15分。その後、私たちは昼食をはさんで話し合いをし、最後に握手で別れたのが午後の4時。そこから彼はまっすぐに空港に向かい、到着したその日のうちに地球の裏側の日本へと帰っていった。
ジーコから聞いた日本サッカーの姿
こんなとんでもないことをする人を私は初めて見た。過酷な旅をしてきたにもかかわらず、疲れも見せず、時差ボケも感じさせず、頭はクリア、出された昼食ももりもりと食べた。少なくとも3時間は話をし、その間にさまざまな条件について話し合い、多くの書類にサインをした。私は彼の疲れを知らないスタミナに驚き、もし日本人が皆これほどの強靭さを持っているのなら、すぐにW杯で優勝できるだろうと思ったものだ。
ここまでして私に会いに来てくれたのは、私を評価してくれている証拠だろうとも感じ、オファーを受け入れた。こんな熱い人がいるのなら日本での仕事もやりやすいに違いない。帯同を希望した4人のブラジル人スタッフをJFAが受け入れてくれたことにも、プロ意識を感じた。
特に私の右腕となったフィジカルトレーナーのジウベルト・ティムの存在は大きかった。ティムは我々のなかでも最も高い報酬をもらうべき人物だった。彼はコリンチャンスなどでプレーした優秀な選手であり、当代一のフィジカルトレーナーであった。私はインテルナシオナルとメキシコのクラブ・アメリカですでに彼と一緒に仕事をしていたので、彼の価値をいやというほど知っていた。日本に行くならばティムと一緒でなければだめだと考えた。
JFAが彼にふさわしい報酬を支払うことに渋い顔をするのではないかと心配したが、それは杞憂にすぎなかった。彼らは問題なく要求を受け入れ、私は彼をスタッフに加えることができた。日本代表はティムの教えを受ける価値のあるチームだったし、その結果は目に見えて出たと確信している。
私にとって日本行きは大きな挑戦だった。
率直に言って、日本についての知識はあまりなかった。当時は今のようにインターネットもない。ブラジルの新聞やテレビで報道される日本のニュースも少なかった。我々ブラジル人が知る日本は、日本にいるブラジル人からもたらされるものがすべてだった。
特にガリーニョ(ジーコ)が語る日本サッカーの姿は魅力的だった。日本はすばらしい。なにより「もっと強くなりたい」という気持ちに溢れている。我々ブラジル人の力を借りて本物のプロにしたいと思っている??―。
若く優秀な選手たちにチャンスを与えた
ラモス瑠偉もまた、日本のことをブラジルに広めた人物のひとりだ。彼の日本での冒険はブラジルでも有名だ。サッカーの黎明期に日本に行き、そこでスターとなり、ついには帰化して日本代表の中心選手になった。この物語は多くのブラジル人の心をつかんでいた。
ただし、本当のところ、日本サッカーはどうなのか、どのくらいのレベルであるのか、それを知る者は少なかった。
そこで私が日本に行って最初にしたことは、日本サッカー界で働く多くのブラジル人から、あらゆる情報を収集することだった。ジーコやラモスのほかにも、エドゥーやセルジオ越後などが力になってくれた。彼らのおかげで私は日本を知り、なにより最適な選手を代表に招集することができた。彼らにはこの場を借りてお礼を述べたい。彼らがいなかったら私の代表監督の仕事は成り立たなかっただろう。
私はまた、Jリーグの全試合が見たかった。そこでJFAやJリーグの力を借り、すべての試合を録画してもらった。また私は毎節、ひとつの試合を選んで直接スタジアムに見に行った。すべてのチームを少なくとも2度は生で見るようにした。それ以外にも、私の信頼するスタッフが各スタジアムに行って、選手、監督、ピッチのコンディションに至るまでを報告してくれた。
私はそれまでも多くの若手選手を代表に抜擢してきた。たとえばブラジル代表監督時代にはカフー、レオナルド、マルシオ・サントス、マウロ・シルバ、アジウソン、マジーニョなどを起用し、そのうちの何人かは1994年に世界チャンピオンとなった。だから私は日本でも同じことをしたかった。若く優秀な選手にチャンスを与え、代表として世界での経験を積んでほしかった。
日本では山口敏弘、前園真聖、小倉隆史、岩本輝雄などを起用し始めたが、彼等もまたその後の日本サッカーに大きく貢献する選手に育ってくれた。
私が一番いい決断をしたと感じていたのは、前園を代表の主力としたことだった。彼はすべての資質を兼ね備えた逸材で、ボールを持った時に何をすべきかをよくわかっていた。そうマエゾノ、20年たった今でも彼の名前はよく覚えている。たぶん日本のサッカー史のなかでも最高の選手のひとりだっただろう。山口のことは練習で見て驚き抜擢したが、ピッチでもその期待を裏切らなかった。
2回見ただけで代表に入れた選手も
私が新たに代表に招集した選手については、さまざまな批判も受けた。曰く、まだ準備ができていない、まだそのレベルにない、メンタルがついてきていない......しかし、私の考えは真逆だった。代表に入れなければいつまでたっても準備はできない。
たった2回、プレーを見ただけで代表に入れた選手がいる。岩本だ。岩本は私が最も信頼する選手のひとりだった。彼は大きなサプライズであり、彼が結果を出してくれた時には本当に誇らしく感じたものだ。それから小倉。それまでオランダにいたので見たことはなかったが、実際にそのプレーを見てすぐに代表に入れようと思った。彼は明確なプレーのビジョンを持っていて、常にゴールを狙っていた。ああ、彼も本当にいい選手だった。
新しい選手を代表に招集する際には、私は常に4人のスタッフと話し合い、決定していた。その後のトレーニングで重要視したのはフィジカルの強化だ。そう、日本で仕事をするにあったっての最大の課題はこのフィジカルだった。多くの選手は世界で戦うに必要な強靭さを持っておらず、対戦相手と競り合った時、日本の選手はよく倒れていた。
フィジカルトレーナーのティムは毎日忙しく働いていたが、いつもこう嘆いていた。
「ボニタウ(ファルカンのニックネーム)、この選手たちはテクニックもスピードもインテリジェンスも持っている。なのにフィジカルだけが足りない。あまりにももったいなすぎる。とにかくまずは体を鍛えなきゃだめだ。こんな筋肉じゃピッチには送り込めない」
ただ、成長する可能性は大いに秘めていた。分析したところ30%のフィジカルの向上が見込めるとの結果が出た。最初のテストで代表の選手たちはよく走り、反射神経も優れていることがわかった。これにフィジカルが加われば、もっと容易に動くことができる。
私は彼らに踏ん張って戦ってほしかった。踏ん張り競り勝てば勇気も自信もわいてくる。その他の資質はすべて持っているのだ。あとひとつフィジカルだけが出来上がれば、日本は格段に強くなる。それが私の第一の目標となった。
フィジカルの課題をこうして克服した
そこで私はただ試合を見るだけではなく、すべてのJリーグのチームを訪ねることにした。フィジカルトレーナーやドクターと話をしては、代表に呼びたいと思っている選手が現在どんなフィジカルの状態であるのかを把握した。選手一人ひとりのカルテを作り、筋肉ひとつひとつの状態をそこに記した。各クラブの練習を見に行ってみてわかったことは、それぞれが全く異なる方法でトレーニングをしているということだった。フィジカルに対する見方もチームによりまるで違っていた。
私たちはただ物理的に筋肉を鍛えるだけではなく、食事による強化もしたかった。それぞれがどのような栄養を摂取すればいいかを研究した。今でこそ当たり前の話かもしれないが、28年前としては画期的な方法だった。
これらをもとに、私たちは選手それぞれに一番適した総合的強化メニューを練り上げた。こうしたことは一朝一夕にできるものではない。代表合宿の間だけやっていても意味はない。そこで我々は各所属チームに、このメニューに沿ってふだんから鍛えてもらえるようにお願いをした。
我々がチームに命じたわけではなかったが、クラブもJFAも、選手自身も率先して私に協力してくれた。仕事をするうえでこれほど協力的な環境は初めてといってもよかった。経済的な障害もなければ、方法論に対する反発もなく、敵もいなかった。落ち着いて自分の仕事ができ、私は日本という国がより好きになった。
(つづく)
パウロ・ロベルト・ファルカン
1953年10月16日生まれ。現役時代はインテルナシオナル、ローマ、サンパウロでプレー。ブラジル代表ではジーコ、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾと「黄金のカルテット」を形成した。現役引退後の1990年、ブラジル代表監督に就任。1994年、ハンス・オフトの後任として日本代表監督に就任した。