2002年初場所での初土俵から幕内在位71場所で最高位は関脇。168センチの小柄ながら三賞を計10回獲得した豊ノ島。2020年3月場所後に現役引退後は井筒親方を襲名して後進の指導に当たってきたが、5月28日、いよいよ断髪式を迎える。節目の…

 2002年初場所での初土俵から幕内在位71場所で最高位は関脇。168センチの小柄ながら三賞を計10回獲得した豊ノ島。2020年3月場所後に現役引退後は井筒親方を襲名して後進の指導に当たってきたが、5月28日、いよいよ断髪式を迎える。節目の日を前に、"相撲巧者"として沸かせた現役時代を振り返ってもらった。



2020年3月場所後に現役引退し、井筒親方として後進の指導に当たっている豊ノ島

本当に力士でなくなる

── 引退から2年が経ち、断髪式を迎えます。髷(まげ)を落とすのはどんな心境ですか。

「力士の引退って、たぶん2段階あると思うんですね。ひとつは現役をやめて勝負の世界から降りること。もうひとつは髷がなくなることです。僕はとくに丁髷(ちょんまげ)への誇りがありました。部屋によっても伝わり方が違って、時津風部屋の教えでは髷を女性に触らせてはダメだと。勝負運が落ちるという意味があるからです。テレビのバラエティ番組にも結構出させてもらいましたけど、丁髷でふざけるようなことはしたくなかった。その丁髷がなくなるということは、自分が本当に力士ではなくなるという感覚です」

── 寂しさのような気持ちですか。

「本来、引退してだいたい半年くらいで断髪式を行なうんですけど、2年もスーツに丁髷で過ごしてきました。やっぱり丁髷には着物や浴衣を着るのがカッコいいスタイルだと思っていたんですよね。引退してから電車にも結構乗るようになったけど、丁髷でスーツっておかしいじゃないですか(笑)」

── あらためて現役時代を振り返らせてください。身長168センチながら立ち合いの変化をしなかった18年はすごいと感じます。

「入門した時のうちの部屋の師匠は元大関豊山の時津風理事長で、『立ち会いは変化しない』という指導を受けていました。でも、入門した当時の僕は体が小さかったから、親方から直々に『体が小さいんだから、変化も必要な時にはいいんだよ』と言っていただいたんです。それでも部屋として変化は好まないという指導を受けてきた以上、貫きとおしたいという思いもありました。

 そういう気持ちを一番強くしたのは、自分が入門してすぐに大関の武双山関が引退されて、断髪式で『相撲人生で何か自慢できることはありますか?』という質問があった時です。『自慢できるようなものはないけど、誇りに思っているのは一度も相手から逃げることはしませんでした』という言葉に触れて、男としてカッコいいなと。断髪式でそれを聞いたので、俺もこんなことを言えるような力士になろうと決めたんですよね」

── 相撲部屋は"家族"とも言われますが、教えは受け継いでいくものですか。

「別に変化をすることに対して、自分は反対ではないですよ。やっぱり勝負ですから。現役が終わってみて、たとえば変化をするような相撲人生だったらどうだったろうと考えることもあるんですね。そうすると、相手からしたら選択肢は増えるわけです。自分は『変化しない』と公言していたから、相手が思いきりぶつかってくる。それは自分にとって結構不利なことです。

 でも、それは勝手に僕がやり出したこと。変化することが反則でもないですし、自己満でやっているだけです。そう考えると、変化していれば相撲の幅が広がったのかなとは思うものの、変化せずに終わった相撲人生をやっぱり誇りに思いますね」

白鵬との優勝決定戦は財産

── 2007年9月場所では白鵬に勝利し、横綱が初めて金星を配給した相手になりました。2010年11月場所では優勝決定戦で敗れましたが、激突するなかでどんなことを感じる相手でしたか。

「30回以上戦って自分は2回しか勝てませんでした。『2回も勝っているじゃん』って言われたらそれまでですけど、やっぱり力の差があったんだなと感じます」

── そういう横綱と同時代に戦えたことは幸せでしたか。

「幸せでしたし、優勝決定戦をさせてもらえたのは財産ですね。白鵬関はその場所の途中まで63連勝という、一番強かった時代に決定戦をやらせてもらった。今でこそ平幕が優勝するのが当たり前な時代になってきていますけど、当時は横綱が優勝するのが当たり前でした。白鵬関が優勝しなかったらほかの横綱か大関という時代で、平幕に優勝させるなんか考えられないというなかでの決定戦で、横綱は『恐ろしく緊張した』と言っていましたね」

── 琴奨菊との取り組みも印象的でした。小学生の頃からわんぱく相撲でぶつかってきた相手と角界でも鎬(しのぎ)を削るのはどんな感覚でしたか。

「なんか運命を感じますよね。小学生の時から知っていて、一緒に入門して、切磋琢磨して......まさかですよね。うれしいを通り越した話ですよね。お互い『ようやったな』と」

2年間の無給生活

── 「ようやったな」で言うと、現役時代に三役まで昇進したところからアキレス腱断裂で幕下に転落、2年間の無給生活を経て十両に復帰しました。当時「相撲が大好きだったのに嫌いになりそうで、それがつらかった」という話をされていましたが、相撲を嫌いになりきれなかったのは何が理由だと思いますか。

「いやぁ、若干嫌いだったですけどね(笑)。嫌いというか、もうイヤだっていう。まだ若ければよかったですけど、もう30歳を超えていましたし......大好きで一生懸命やってきた相撲がイヤだなって。自信があったのに、本当にうまくいかなすぎて。それまでがうまくいきすぎていたのもあったのかもしれないですけど、なんでこんなに苦しい思いをしなきゃいけないのかなという気持ちがありましたね」

── 2年はすごく長いですね。

「遅くても半年で戻れるだろうっていう感覚だったんですよ、正直。それが2年ちょっとあったので、長かったですね。自分ひとりだったら間違いなくやめていました。途中で親方に『もうやめます。今場所限りで』という話をして、『わかった』と言われて家に帰ったら、娘に『絶対やめちゃダメだよ』って言われて頑張ろうと。でも、何度も(十両に)戻りそうになったらケガして、戻りそうなになったらケガしてとなった時に、本当に無理だっていうのが何回かあったけど、そのたびに妻が『絶対大丈夫だから』って。こっちが『もうええやろ』となっても、妻が『やめさせない!』みたいな(笑)」

── 三役まで上り詰めた関取が幕下で戦うのはどんな心境でしたか。

「初めて幕下に下がった時、僕は"幕下にいる横綱"くらいの感覚でした。正直、自信しかなかったんですよ。稽古場で関取衆とやっても、全然負けなかったですし。それがおかしなもので、思うように勝てなかったのはプレッシャーでしょうね。対戦相手もやっぱり『豊ノ島だ』っていう感覚で思いきってきます。自分で言うのも変ですけど、こっちは豊ノ島というブランドを着飾って勝負しないといけない。

 その時に本当にすごいなって思えたのは、白鵬関は横綱っていうブランドを着飾って土俵に上がって、ずっと結果を残し続けた。やっぱり勝負に対しての気持ちが強かったんだろうなって。自分には変な自信だけあって、『絶対勝つ』という気持ちの強さが足りなかった。横綱は勝って当たり前の立場でいながらも、勝負に対してすごく貪欲だった。だからこそ、あれだけ長く強い横綱でいられたんだろうなと思いましたね」

── 当時の経験は、いま親方として生きていますか。

「一番大きいのはケガして、そのまま辞めなかったことです。自分がケガしたまま辞めていたら、ケガした力士に『あきらめるな』と言っても、自分は幕内に戻るという結果を残せなかったわけですから。なんとか意地でも上り詰めた経験があるから、その言葉を伝えた時に説得力が出てくるんじゃないかなと思っていますね」