ケンドーコバヤシ令和に語り継ぎたいプロレス名勝負(3)後編(前編:渕が斎藤にまさかのイス攻撃。その姿に学んだ「ベルトより大事なもの」>>) ケンドーコバヤシさんが語り継ぎたいプロレスの名勝負として挙げた1986年8月16日のヒロ斎藤vs渕正…

ケンドーコバヤシ
令和に語り継ぎたいプロレス名勝負(3)後編

(前編:渕が斎藤にまさかのイス攻撃。その姿に学んだ「ベルトより大事なもの」>>)

 ケンドーコバヤシさんが語り継ぎたいプロレスの名勝負として挙げた1986年8月16日のヒロ斎藤vs渕正信。後編は、この一戦がフラッシュバックした千原ジュニアさんの"まさか"のひと言、激闘から感じた「譲れない悔しさ」について語った。



1986年8月16日、イスで斎藤(左)を攻撃してレフェリーに止められる渕

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――1986年8月16日、因縁のヒロ斎藤さんに挑戦した渕正信さんから「やられた側は悔しさを忘れない」ということを学んだという話を伺いましたが、ケンコバさん自身、同じように「やられた悔しさ」が忘れられない経験をしたことはありますか?

「ちょっとプロレスから離れますが、そこから話しましょうか。相手は千原ジュニアさんです。ジュニアさんは、今はそんなイメージはないでしょうけど、昔はすごく内弁慶というか、すぐに周囲の人との壁を作ってしまう"人見知りの究極系"みたいな方でした。

 俺は大阪でデビューした時から、ジュニアさんと一緒に舞台などにも出演させてもらっていました。ジュニアさんはデビュー3年目の先輩で、人見知りのはずなのに、俺にはいつも『ご飯、連れて行ったるわ』と声をかけていただいて。10年ぐらいは毎日一緒にいたと思いますよ」

――すごくいいお話だと思うのですが......。

「事が起きたのはそのあとです。千原兄弟さんが東京に進出したあと、俺はまだ大阪にいたので5年くらい会えない期間があって。それで約5年ぶりの再会の時、俺が『ジュニアさん、お久しぶりです』ってあいさつに行ったら......大阪時代はずっと『コバ』と呼んでくれていたのに、『おう、元気だったか?"自分"』って、ちょっと距離のある呼び方をされたんですよ。その瞬間、『たった5年会っていないだけで、あの一緒に過ごした時間の輝きを消すんですか!』と寂しくなったというか、悔しかったですね」

譲れない悔しさは忘れるな

――それは、ジュニアさんも覚えているんですか?

「最近、ジュニアさんにそれを言ってみたんです。『あの再会の時、俺のことを"自分"と言うてました』って。そしたらジュニアさんは、『絶対ない。俺は絶対ない』と。その時、俺は(1986年8月16日の試合の)渕さんのように耳を指差しましたよ(笑)。俺が渕正信で、ジュニアさんがヒロ斎藤という構図だったんです」

――まさに、やられた側は悔しさを覚えているという典型ですね。その悔しさは糧になりましたか?

「当時、ジュニアさんが東京吉本の若手をかわいがっていたことにも、俺は『大阪にいた俺らのこと忘れたんか』と思っていました。今、ジュニアさんと『にけつッ!!』という番組をやらせていただいているんですが、あの悔しさがあったからこそ奮起して、そこまで辿り着けたのかもしれません」

――そういったことからも、斎藤さんと渕さんの試合から教えられることがたくさんあることがわかりますね。

「あの試合で何度も耳を指差す渕さんを見たお客さんは、『いったい何をやっているんだろう?』と思ったでしょうね。イスで相手をバンバン叩きながら、耳を指差すって意味がわかりませんから。全日本のファンは家族連れも多かったですし、その前の試合で渕さんが耳をやられていた、なんてストーリーを知らないお客さんもたくさんいたと思うんです。だから会場の雰囲気も微妙だったでしょう。でも、それでもいいんです。俺が伝えたいのは、『たとえ誰にも伝わらなくても、譲れない悔しさは忘れるな』ということなんです」

――渕さんがここまでケンコバさんの心を揺さぶっていたとは驚きです。

「この試合は人にあまり語ったことがないんですけど、強く記憶に残っているんですよ。おそらくこの試合は、渕さんの"すごみ"が最初に出た試合だったんじゃないですかね。のちに若手の門番になって"赤鬼"と呼ばれるキラーぶりを発揮しましたが、それまでは常に冷静沈着で、レスリングの高い技術をベースにしたテクニシャンという印象でしたから。"赤鬼"と呼ばれる出発点があの試合だったんじゃないかと、俺は思っています」

斎藤に引き出された「赤鬼」が飛躍

――斎藤さんがその"すごみ"を引き出したということなんでしょうか。

「そうかもしれませんね。斎藤さんは、あのジャイアント馬場さんが認めるほどプロレスがうまかったですし。渕さんのすごみと、斎藤さんのうまさが凝縮された試合やったと思います」

――当時の全日本は、1985年から長州力さんが率いる「ジャパンプロレス」が参戦して日本人対決が主軸になっていました。

「そうですね。俺は同世代のファンのなかでも古い天龍ファンなんです。『第三の男』と呼ばれていた時から好きで、テーマソングの『サンダーストーム』もカッコよかった。なかなか人気が出ないのが歯がゆかったんですが、長州さんたちが乗り込んで天龍さんが真っ先に迎撃する形になり、天龍さんが輝いたじゃないですか。だから、あのジャパンプロレスとの抗争は、個人的にすごく嬉しかったです」

――そのヘビー級同士の日本人対決がジュニアにも波及し、斎藤さんが渕さんの"すごみ"を引き出したと。

「それはあると思いますよ。ジュニアでは小林邦昭さんも絡んできて、意地と意地のぶつかり合いのような試合になってましたから。あの時代のジュニアは、飛んだり跳ねたりがないけど、レスリングで見せるレベルの高い試合ばかりでした。

 小林さんが渕さんを胴締め式の裸絞めで勝った試合があるんですが、新日本のマットで初代タイガーマスクの佐山サトルさんと何度も激闘を繰り返した小林さんが、『佐山にも出さなかった技を出させられた』って言ったのも印象的で。小林さんはタイガーマスクにも出さなかった奥義を、渕さんに出さざるを得なかったんです。

 こうして語っていると、当時の世界ジュニアの流れはあらためて検証したほうがいいんちゃうかなとも思いますよ。それほど、あの時代もすごい試合が多かったですから」

(第4回につづく)