1996年のドラフト2位で谷佳知が入団「ゴロで打ち終わったあとの一塁到達が右打者で一番速かった」 1995、96年にリー…

1996年のドラフト2位で谷佳知が入団「ゴロで打ち終わったあとの一塁到達が右打者で一番速かった」

 1995、96年にリーグ連覇、日本一を成し遂げるなどオリックスの黄金期を仰木彬監督とともに支えたのが、打撃コーチを務めた新井宏昌氏だった。仰木監督も絶大な信頼を置き、作戦面でもアドバイスを求めるほどだった。本人の証言をもとに振り返っていく連載の第8回は「“右のイチロー”として期待された谷佳知」。

 イチロー、田口らを擁しリーグ連覇、日本一を果たした翌年、ドラフト2位で入団したのが谷佳知だった。1996年のアトランタ五輪では日本代表に選出されて銀メダルを獲得。球団も右の巧打者として大きな期待を寄せており、新井氏も「ゴロで打ち終わったあとの一塁到達が右打者で1番速かった。上手く体重を乗せて打つ姿から“右のイチロー”という表現に近い選手だった」と、その素質を高く評価していた。

 当時のチームはリーグ2連覇を果たしながらも、打順は固定できない陣容だった。対戦相手に合わせて異なる打順を組む「猫の目打線」は“仰木マジック”と呼ばれていたが、「固定できるようなメンバーがいれば理想だったが、そこまでいなかったということ。予告先発を最も利用したのが仰木監督。イチローを中心に打順を組んでいたが、その中で谷がきた」と新井氏は振り返る。

1999年8月、イチローが右手に死球を受け、残りシーズンを欠場

 プロ初年度の1997年、沖縄・宮古島の春季キャンプではイチローと同じ組で打撃練習を行わせるなど“英才教育”を施して来たるシーズンに向けて準備を進めた。同年は開幕スタメンこそ逃すが、101試合に出場し打率.272、1本塁打33打点の成績を残し、翌1998年からはレギュラーの座を獲得。12球団No1とも言われた「左翼・田口、中堅・谷、右翼・イチロー」の外野布陣を形成することに成功した。

 だが、1999年8月にチームをアクシデントが襲う。1994年から763試合連続出場を続けていたイチローが右手に死球を受け、残りシーズンを欠場することに。主に3番を務めていた中心打者を失うと、仰木監督から新井氏は「誰を3番で使えばいいと思う?」とオーダー案を求められた。

 そこで新井氏はプロ3年目を迎え、広角に打ち分けることができて得点圏でも犠飛を打てる打撃技術を兼ね備えていた谷を推薦。しかし、「イチローと似ていて、自ら仕掛け初球からバットをしっかり振りきれるタイプ」だったという谷はシュートや、打ってもゴロになるボール球の変化球を自ら打ちにいき、外野に打球が飛ばない状況が続いた。

 思ったように得点できない打順の流れに仰木監督も徐々に苛立ち「お前が3番にしろ、というから使った。だが、何だこの結果は?」と激怒。しかし、新井氏にも言い分はあった。得点圏に走者がいる場合には、谷に「シュートに手を出すな」と伝えており「言われた時は仰木さんにもカチンときましたし、谷にもコーチを殺すつもりかと(笑)」。

「選手ができてないことは指導していないことと同じ」

 しかし、指導者としての考えを改めさせられたのもこの一件だったという。

「自分は指導しているつもりだったが、選手ができていないことは指導していないことと同じ。あの一件で目を覚ますことができた。冷静に考えると指導力不足です」

 その後、新井氏は根気強く指導を続け、谷も徐々に打撃を変化させていった。2006年オフには巨人にトレード移籍となったが、新天地でも巧打は健在。古巣オリックスに復帰し、2015年に現役を引退したが、通算1888試合に出場し1928安打、打率.297、133本塁打741打点と堂々たる成績を残した。

「仰木監督に叱られ、指導者として一段階成長できた。谷は初めて自分の中で見て、一緒にした選手だった。何としても2000安打を達成してほしかったですが、思い出深い選手の1人でした」

 選手と共に成長し、指導者としての引き出しを増やしていった新井氏。一方でオリックス時代には仰木監督から編成面でも相談されることが多々あった。1999年、ヤクルトに入団したロベルト・ペタジーニも、その1人だった。(橋本健吾 / Kengo Hashimoto)