ケンドーコバヤシ令和に語り継ぎたいプロレス名勝負(2)前編(連載1:新日本の「虎ハンター」が「一般の空手家」に敗れた異種格闘技戦>>) 子供の頃からあらゆる団体の試合を見続け、各メディアで"プロレス愛"を披露してきたケンドーコバヤシさんが、…

ケンドーコバヤシ
令和に語り継ぎたいプロレス名勝負(2)前編

(連載1:新日本の「虎ハンター」が「一般の空手家」に敗れた異種格闘技戦>>)

 子供の頃からあらゆる団体の試合を見続け、各メディアで"プロレス愛"を披露してきたケンドーコバヤシさんが、独自の目線で名勝負を語り尽くす連載。第1回の小林邦昭vs齋藤彰俊に続いて、第2回は"格闘王"と"ドラゴン"による激闘を熱く語った。



前田(右)の大車輪キックが藤波の顔面に命中

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――前回の小林vs齋藤に続く忘れられない試合は?

「俺が上京した時とリンクしてしまった懐かしの試合で......。超有名な試合なんですけど、1986年6月12日に大阪城ホールで行なわれた藤波辰巳(現・辰爾)vs前田日明です」

――前田さんの大車輪キックが、藤波さんの顔面に命中して大流血したシーンが伝説となっている試合ですね。

「あのキックが当たった瞬間、藤波さんが一度、傷口を手で抑えたんですよね。それで手を放した瞬間に血がピューッと出てきて。キックが当たって、遅れて傷口から血が噴き出す。テレビで見ていて、『こんな映画みたいなシーンがあるんや』って感動しましたよ。すごい名シーンでした」

――試合は、前田さんの蹴りを藤波さんが受けまくる凄まじい展開で、最後は前田さんのニールキックと藤波さんのジャンピングキックの相打ちで両者KOとなりました。

「試合自体は、この年の東スポのプロレス大賞でベストバウトに選ばれるぐらいすばらしい試合でした。両者KOというラストだけは、『前田はダメージないやろ』っていう感覚があったんですけど、それも前田さんの試合後のコメントを聞いたことで納得できました」

――それはどんなコメントですか?

「『無人島だと思ったら仲間がいた』です」

――1986年は、前年に活動停止になったUWFが新日本にUターン参戦しましたが、格闘技スタイルを貫く前田さんと新日本のレスラーとの間には溝がありましたね。

「そういう状況で、前田日明という人間が"悩める青年"であることがファンにも伝わってきていました。『新日本に自分を受け止めてくれる人はいない』と。悩み続けた日々を過ごしていただろう前田さんを"受けた"のが藤波さん。強烈な蹴りから逃げずにすべて受け止めてくれた。その感動が、『仲間がいた』という言葉を生んだんだと思います。

 この言葉が強く印象に残っているのは、のちに僕自身が、当時の前田さんとリンクするような出来事を経験したからなんです」

藤波に学んだ「受けの美学」

――どういった出来事ですか?

「僕は2000年代の中ごろに東京に進出したんです。それで舞台やテレビに出演した時、たまにプロレスジョークを挟んでいたんですけど、まったくウケないんですよ。誰も笑ってくれない。その時は『そらそうやろな。プロレスのボケは自分のワガママでやってるからウケなくても仕方ない。他のことで笑わせなあかんか......』と、理解してもらえない寂しさがあったんです」

――まさに無人島状態ですね。

「そんな悩みを抱えたある日、僕のプロレスジョークを、くりいむしちゅーの有田(哲平)さんだけが笑ってくれたんです。しかも、何を言っても大爆笑してくれて」

――その時の有田さんは、ケンコバさんにとっての藤波さんだったわけですね!

「それだけじゃなくて有田さんは、もっとすごいプロレスのボケをやってきたんです。それで俺も大笑いしっぱなしでした。今思えば、あの時の有田さんも『無人島だと思ったら仲間がいた』と感じてくれていたのかもしれません」

――前田さんの「無人島だと思ったら仲間がいた」という感覚を、ケンコバさんと有田さんも抱いていたということですね。先ほど、そのコメントによって「両者KOの結末にも納得できた」と話していましたが、それはどういうことでしょうか。

「藤波さんは出血量もすごかったですし、スタミナも限界だっただろうから、立ち上がれないことに説得力があった。だけど、前田さんに関しては『まだバリバリ元気やろ』とも思ってました。だけど、あの名言を聞いて納得しました。『無人島で仲間を見つけたら、もう戦えんよな』って。だから立ち上がれなかったことに関しても、勝手に僕の中で『足がしびれたんやろう』と脳内補完された感じなんです。試合内容もメチャメチャ面白かったし、ひとつの"作品"としてすばらしかったです」

――攻める前田さんより、受ける藤波さんが光るというプロレスならではの世界観もありましたね。

「当時の俺は中学2年生で、従来のプロレスとは違う、前田さんの刺激的な攻撃に熱狂していました。ジャイアント馬場さんが言っていた"受けの美学"みたいなものも、正直なところよくわかっていなかった。それを理解するきっかけになったのが、この試合だったんちゃうかなと思うんです。そこあたりから、『プロレスって受けが大事なんだ』という視点で試合を見るようになっていったので」

――プロレスの見方が変わったわけですね。

「しかも、この藤波vs前田と同じ構図が、ジュニアヘビー級の越中(詩郎)vs髙田(延彦)でも見られたのがいいですよね。やはり1986年に相まみえた2人も、UWFから戻ってきた髙田さんのキックを、全日本から新日本に移籍した越中さんが受けた。そこから、ジュニアヘビー版の"名勝負数え唄"と呼ばれる名勝負がいくつも生まれるわけですから。

髙田さんは、年上の越中さんを『オイ!エッチュー』と呼んでましたけど、俺はそれも『言いすぎちゃうか?』と勝手に気を遣ってドキドキしてました」

――越中さんを「エッチュー」呼ばわりしたのは髙田さんだけだったと記憶しています。

「それほど新日本とUWF勢の戦いが熱かったということですね。ただ......UWFは、俺と親父の"断絶"をまねくきっかけにもなった団体だったんです」

(後編:アンドレとの「不穏試合」で見た「格闘王」の意外な姿)