ケンドーコバヤシ令和に語り継ぎたいプロレス名勝負(2)後編(前編:前田日明が「仲間」を見つけた大流血の一戦>>) 1986年は、第1次UWFと前田日明にとって重要な一年になった。前編で語られた藤波辰巳(現・辰爾)との激闘もそうだが、その前後…

ケンドーコバヤシ
令和に語り継ぎたいプロレス名勝負(2)後編

(前編:前田日明が「仲間」を見つけた大流血の一戦>>)

 1986年は、第1次UWFと前田日明にとって重要な一年になった。前編で語られた藤波辰巳(現・辰爾)との激闘もそうだが、その前後でも前田はプロレス史に残る試合を経験。既存のプロレスのイメージを覆す大きな波は、ケンドーコバヤシさんの親子関係にまで影響を与えた。



アンドレ(右)と相対する前田

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――前編で、UWFがケンコバさん親子の断絶を生んだと話していましたが、詳しく伺ってもいいですか?

「それを説明するには、まず俺がプロレスにのめり込んだ経緯から話さないといけません。

 もともとウチは親父がプロレス好きだったんですが、1970年代半ばから全日本プロレスで暴れまわっていたアブドーラ・ザ・ブッチャーの軍団が許せなかったらしいんです。それで、あれは俺が幼稚園くらいの時ですかね、親父から『お前はいつかブッチャーを倒せ』と、剛柔流の空手道場に入れられたんですよ」

――ブッチャーを倒すために、空手を始めたんですね。

「空手だけじゃなくて、ちっちゃい時から家で筋トレもよくやってましたし、ゆくゆくはプロレスラーになることを期待されてました。そんな親父の影響で、家では全日本、新日本、ギリギリ国際プロレスもテレビで見てたかな。そうしてプロレスの世界にハマっていくわけです」

――そこに、UWFがどう関わってくるわけですか?

「俺自身は、1984年に旗揚げした第一次UWFから大好きで。テレビ中継はなかったけど、週刊誌などで試合を追っかけてました。そのあとにUWFが活動停止になって、選手たちが新日本に戻ってきたら、親父が『これはプロレスじゃない』とプロレスから離れていったんです。俺はもう中学、高校生になる頃でしたけど、それまで『プロレスを習え』とさんざん言われてやってきたのに、『もう習わんでええから好きなことやれ』と言い出したんですよ」

アンドレとの試合で前田が「やっちゃっていいのか」

――それは戸惑いますね。

「俺は『今さらそんなこと言われても』と思ったし、プロレスラーになるためにいろいろやってきたから後戻りできなくて、親父に『俺はプロレスラーになる』って宣言したんです。そのあと、前田さんが新日本から契約を解除されて、新生UWF(第二次UWF)が設立されてから親父は完全にプロレスから離れました。逆に、俺はさらにのめり込んでいった。UWFが僕と親父の"断絶"を招いたんです」

――確かに藤波さんとの試合もそうでしたが、前田さんはケンコバさんのお父さんが好きだった既存のプロレスを壊すスタイルを貫きました。アントニオ猪木さんも結局、前田さんとシングルマッチは組みませんでしたね。

「猪木さんが対戦しなかったことで、ますます前田日明というレスラーの"幻想"が膨らんでいきましたね」

――藤波さんとの試合がある2カ月前、1986年の4月には、アンドレ・ザ・ジャイアントとの「不穏試合」もありました。

「テレビマッチやのに、放送禁止になってお蔵入りになった試合ですね。でも、どうやったかはよく覚えてないんですけど、たまたま映像を見ることができたんですよ」

――その試合は、いわゆる「セメントマッチ」と言われています。アンドレが前田さんの技をまったく受けず、最後は無効試合になりました。どんなシーンが印象に残っていますか?

「試合中に前田さんが、リング下の星野勘太郎さんに何かを聞いていたところかな。この時、アンドレの様子に戸惑った前田さんは『(アンドレを)やっちゃっていいのか』と聞いたとも言われてますが、当時の俺は『こういう時、前田は星野(勘太郎)さんに聞くんや』と思ったのを覚えてます。何かする時に許可取りがいるんやと。その場面を見て、前田さんと星野さんがケンカをしたという逸話も、どんどん俺の中で現実味を帯びていきました」

――星野さんには「ケンカ最強」という説もありましたね。

「ずいぶんあとの2002年に、星野さんが総裁を務める『プロレス結社魔界倶楽部』というヒールユニットが発足した時も、周囲とは違う目で見ていました。当時『魔界』は、総裁の星野さんが『ビッシビシ行くからな!』という決めゼリフが有名になりましたけど、けっこう色物的な扱いをされていて。でも、あの星野さんが総裁ということは、『色物軍団なはずがない』って勝手に自分の中で格を上げてました」

――前田さんは1986年、4月のアンドレ戦、6月の藤波戦、そして10月にキックボクサーのドン・中矢・ニールセンとの試合(1ラウンド3分、10ラウンド制)に勝利して一気にブレイクしました。

「前田vsニールセンは、10.9両国ですね。ニールセンの打撃に押され気味だった前田さんがローキックを中心に巻き返して、5ラウンドには左パンチをもらいながらタックル。アキレス腱固めから逆エビ固めでギブアップを奪った激戦でした。

 その大会は猪木さんのレスラー生活25周年記念大会で、メインで猪木さんがアメリカのプロボクサーのレオン・スピンクスとやりましたが......強烈なインパクトがあったのは、レフェリーを務めたガッツ石松さんが8ラウンドにカウントを取って猪木さんの勝ちにしちゃったこと(笑)。異種格闘技戦ならKOかギブアップのみというルールのはずなのに、『これフォール制やったの?』とビックリしましたよ。

 いまだに、ガッツさんにちゃんとルールを説明したのかは微妙ですね。もしかすると、前田さんとニールセンの試合でお客さんが盛り上がりすぎて、『これ以上やっても意味がない』と猪木さんが判断したのかもしれない。前田vs藤波の試合からは話が逸れましたけど、1986年の前田さんとUWFはそれほどに強烈だったということです」