2024年、パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。※  ※  ※  ※パリ五輪を…

2024年、パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。

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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
~HAKONE to PARIS~
第1回・星岳(帝京大―コニカミノルタ)前編



大阪マラソン・びわ毎日マラソン統合大会で優勝した星岳(コニカミノルタ)。帝京大学時代は箱根駅伝で3度走った

 星岳(ほし・がく)──。

 印象的な名前のランナーは今、「パリの星」とも言われ、注目の選手になっている。

 大阪マラソン・びわ毎日マラソン統合大会で2時間7分31秒という初マラソン日本最速タイムで優勝し、五輪代表選考レースとなるMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)の出場権を獲得。7月、アメリカ・オレゴンで開催される世界選手権のマラソン日本代表にも選出された。帝京大学時代は、3度、箱根駅伝を走り、卒業後はコニカミノルタに入社。わずか1年で大きな結果を残した。「箱根から世界へ」旅立とうとしている今、星が箱根駅伝から得たものは何だったのか。またマラソンへの挑戦、オレゴンでの世界選手権、MGCについて話を聞いた。

「高校の時から箱根駅伝を意識していました」

 星は、そう語る。

 中学まで東北楽天ゴールデンイーグルス好きの野球小僧だったが、仙台大学附属明成高校陸上競技部顧問の中村登先生に声を掛けられて陸上の道に進んだ。

「僕の場合、箱根駅伝を目指して陸上を始めたと言ってもいいぐらいです。高校の先輩の村山謙太さん(旭化成)、紘太さん(GMO)、池田(紀保・埼玉医科大学アスリートクラブコーチ)さんが箱根を走っている姿をテレビで見て、すごく刺激を受けました。野球をやっていた時は、甲子園が憧れの舞台でしたが、陸上を始めた自分にとって箱根がその舞台になったんです」

大学2年時に10区で区間賞を獲得

 高校から陸上を始めたため、2年の途中までは練習を含めて壁にぶつかることが多かった。だが、コツコツと努力を重ねて走力を高め、2年の12月、5000mで初めて14分台を出した時、「少し上が見えるようになった」と言う。そして箱根駅伝を走るために帝京大に入学するのだが、陸上部に入ると箱根を走ることが容易ではないことを実感した。

「部にはインカレや箱根で活躍されている先輩がたくさんいたので、箱根に挑戦できるワクワク感がありながらも先輩との力の差を実感し、箱根を走る難しさを改めて感じました。4年間で4回しかチャンスがないなか、故障とか体調不良のリスクを考えると、強くても出られない可能性がある。僕は4年で1回は箱根を走りたいと思って入学したのですが、そんな悠長なことは言っていられない。4年間とかではなく1年1年が勝負だなと思いました」

 星は、大学1年時はとにかく走る力をつけることに注力した。そして、大学2年の時、箱根駅伝出走のチャンスを得るために、あるレースに集中した。

「全日本大学駅伝の出走メンバーから外れた時点で、箱根を走るためには上尾ハーフに狙いを絞ってアピールするしかないと思っていました。そこで、結果(5位・62分20秒)を出せたことで自信がつきましたし、箱根もイケると確信しました」

 上尾ハーフは、主力以外の選手にとって箱根駅伝を走るための選考レースになっている。ここで結果を出した選手は、故障などがないかぎり、箱根駅伝の登録メンバーに入り、出走するチャンスを得る。星もそのチャンスを手にして、10区の出走を勝ち獲った。中野(孝行)監督が唸った力走で区間賞を獲得した星はチーム内でエース格となり、3年時は2区をまかされた。

「2年時に初めて箱根を走った時は、自信はありましたけど、まさか区間賞を獲れるとは思っていなかったです。3年の時の2区は、前年よりも不安や緊張が大きかったですね。10区とはまったくコースも展開も違うので、前回の経験がどこまで生かせるのかという不安が大きかったですし、実力的にも相澤(晃・東洋大―旭化成)さんを始め、すごい選手が多かったので緊張もありました。ただ、周囲の選手を見ても仕方ないので、とにかく自分のベストを尽くそうと考えていました。駅伝は流れがあるので、この時は1区の小野寺(悠・現トヨタ紡織)が結構いい走りで襷をもってきてくれたので、そういう流れも大きかったと思います」

 この時、奇しくも大阪マラソン・びわ毎日マラソン統合大会で優勝を争った山下一貴(駒澤大―三菱重工)は星と同じ2区を走り、浦野雄平(國學院大―富士通)は5区を走っていた。2区9位とまずまずの手応えを感じた星は、走り終えた直後、「次も2区で」と思ったという。その狙いどおり、最終学年では主将として2区を駆けた。

「4年の時は、やっぱり3年の時に経験しているので、それを活かして前回以上の結果を残したいと思っていました。3年の時はスムーズに行った感があったんですけど、4年の時はあまりうまく走れなかったですね。それがなぜなのか正直わからないですけど......気負いすぎていた部分があって、それが力みにつながったのかな......」

箱根駅伝の経験で意識が変わったのは間違いない

 3度、箱根駅伝を走り、大きな経験を得たが、個人の成長という面でも箱根は非常に大きかったようだ。とりわけ、区間賞は星の競技者としての意識を大きく変えた。



箱根駅伝での思い出を語った星岳(筆者撮影)

「2年時の10区区間賞は、いろんな意味で自分にとって大きかったです。それまでは箱根だけに集中して、大学でこうありたいとか、社会人ではこうしたいというところまで描いていなかったんです。区間賞を獲ってから自信がついて、チーム内の競争という枠からひとつ抜けられましたし、ロードという自分の目指すべき方向性も見えてきました。ステージがひとつ上がった感があって、自分に対して求めるものが高くなりました。タイムを出すことは大事ですけど、勝つというのは特別だなと今回の大阪マラソン・びわ毎日マラソン統合大会もそうですが、この区間賞を獲った時に思いました」

 意識が変わり、成長できたのは、やはり舞台が箱根駅伝だからなのだろうか。

「間違いないと思います。社会人1年目を終えて、箱根駅伝以上の雰囲気というか、(世間からの)注目度がある大会はありませんでした。箱根は、本当に種類が違うというか、その規模や舞台の大きさからもレベルが全然違うなっていうのを改めて感じました」

 大学で箱根駅伝を経験した多くの実業団の選手は、星と同じ感想を述べている。そのため、走力が高く、実業団でもいけるのにと思う選手が、箱根以上に懸けられるものがないと卒業後、現役を引退するケースもある。箱根駅伝は、そのくらい大きなものなのだ。その舞台を走った星は競技者として箱根から何を得たのだろうか。

「自分は、箱根で結果を出すことだけに集中してトレーニングをしていたんですけど、結果的に箱根駅伝のタフなコースやトレーニングが社会人で競技をするための土台になりました。箱根は学生には酷なんじゃないかっていうぐらいのプレッシャーのなかで走ることになります。みんなに見られているとわかった状態で走るのですごく緊張しますし、うまくいかなかったらどうしようという不安も少なからずあります。そういうプレッシャーや不安のなかで走ることで精神的に相当鍛えられましたね(苦笑)」

 4年時には主将となり、コロナ禍のなか、難しいかじ取りをまかされたが先頭に立ってチームを引っ張り、総合8位でシード権を確保した。「4年時はもっと走れる(2区12位)と思ったけど、箱根は甘くなかった」と苦笑したが、箱根を駆けた帝京大時代、自身が思い描く成長ができたのだろうか。

「正直、自分が思い描いた以上の4年間になりました。目の前の階段を少しずつ上って行ったので、すごく成長したような実感はないのですが、それでも箱根駅伝でいい経験ができましたし、力もついたと思います。箱根を走ることで社会人になってからの自分の方向性も見えたので、本当に箱根からいろんなことを得ることができました」

 星は箱根を走りたいという強い欲求から走力を高め、大学入学時には思い描くことができなかった卒業後の自分の方向性を見つけられた。箱根は最高の勝負の舞台だが、1年、1年の努力の対価として、それぞれの選手が必要なものを見つけられる学びの場でもある。

星が見つけたのは、「マラソン」への挑戦だった。

>>>後編「初マラソン日本記録達成の裏側。星岳はライバルの余裕の笑みに『マジか』」に続く