日本代表「私のベストゲーム」(10)岡野雅行編(後編)前編はこちら>> 岡野雅行がJリーグで自己最多の11ゴールを記録し…

日本代表「私のベストゲーム」(10)
岡野雅行編(後編)

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 岡野雅行がJリーグで自己最多の11ゴールを記録したのは、1996年シーズンのこと。同年、岡野はJリーグベストイレブンにも初めて選ばれている。

 そんな充実のシーズンを過ごした1996年とは、すなわち、岡野が自身の日本代表ベストゲームに選んだ、ウルグアイとの親善試合があった年である。



日本代表でゴールを決めたことが大きな自信になったという岡野雅行

 しかも、そのウルグアイ戦を境に、1996年シーズンのJリーグを前半戦15試合と後半戦15試合とに分けてみると、岡野のゴール数が前半戦は3ゴールだったのに対し、後半戦は8ゴールと急増していることがわかる。

「ウルグアイ戦でのゴールが、僕に自信をつけさせてくれた」

 岡野が口にした言葉は、単に感覚的なものではなく、実際の数字や記録にも裏づけられた、確かな事実だったのである。

「日本代表っていうのは、本当に選ばれしものが集まるチーム。最初は日本代表に選ばれるだけでもありがたいと思っていましたけど、あのウルグアイ戦でゴールできたことで、ようやく日本代表の一員になれた気がして、『浦和レッズに帰っても恥ずかしいプレーはできないな』、『この自信をレッズに持ち帰りたいな』と思いました」

 自覚が芽生えた記憶とともに、岡野が強く印象に残しているのは、ウルグアイ戦からわずか3日後に行なわれた、清水エスパルス戦でのゴールだ。

 雨の日本平球技場。右サイドを疾走していた岡野は、ぬかるんだピッチに止まったボールを拾うと、ゴールへ向かってドリブルを開始した。体を寄せてくる相手DFもお構いなし。ペナルティーアーク付近で左足を力強く振ると、放たれたシュートはゴール左上スミに吸い込まれた。

「自分で言うのもなんですけど、ホントに"突き刺さる"という感じでした(笑)。

 たぶん、それまでだったら、あれは打たなかったと思います。でも、あの場面で、しかも利き足ではない左足でも振りきる自信があって、それがまた、ホントにきれいにゴールに突き刺さった。

 やっぱり代表で結果を出したことで、なんて言ったらいいのか......、"体に芯ができた"感じがしました。自分が自分じゃないみたいな、何をやってもうまくいくような感じでした」

 さらに清水戦から3日後、ホームの駒場スタジアムに戻っても、サンフレッチェ広島戦で2戦連発のゴール。もはや「打てば入っちゃう、みたいな感じでしたね」。

「だから、レッズの選手たちも僕を信頼して、それまで以上にパスを出してくれるようになりました。『代表では使えるけど、レッズじゃ、ダメじゃん』では、次は選ばれないですし、レッズのなかでは一番目立っていなきゃいけないなと思っていました」

 ウルグアイ戦をきっかけに、たちまち積み上がっていくゴール数を見ながら、岡野は自然とふた桁ゴールを意識するようにもなっていた。

「おそらく当時のインタビューでも、ふた桁はとりたいと常に言っていたと思います」

 結果的に、岡野は有言実行の11ゴールを記録するわけだが、興味深いのはふた桁にリーチをかけたあとの2ゴール、すなわち、10点目、11点目のゴールが、いずれもヘディングシュートによるものだったことである。

 岡野が照れ笑いを浮かべる。

「ヘディングって言っても、クロスをガーンと叩きつけるような感じじゃないですよ、僕のヘディングは。全部こぼれ球です(笑)」

 実際、岡野にヘディング巧者のイメージはない。岡野自身、「僕は小学生の時に"事故"を起こしてから、それがトラウマになってヘディングは苦手でした」と認めている。

 岡野が言う事故とは、ある試合でのことだ。

 小学生当時から足が速かった岡野は、味方GKが大きく蹴ったボールを追いかけ、相手ゴール前へ向かって走っていた。そして、スピードに乗ったままヘディングしようと、ボール目がけて大きくジャンプ。と、その瞬間である。

 飛び出してきた相手GKと激しく激突した岡野少年は、一瞬、目に映るものの動きがすべてスローモーションになったことは覚えているが、次に気がついた時は、ベッドの上にいた。

「それからヘディングするのがものすごく怖くなったんです。レッズでも『おまえ、ヘディングができなくてどうするんだ』って言われて、練習させられていましたけど、クロスからきれいに入れたことはなかったと思います」

 その言葉どおり、岡野が決めたふたつのヘディングシュートは、いずれも他の選手のシュートがバーに当たったはね返りや、ヘディングで落としたボールを頭で押し込んだものだ。岡野の言葉を借りれば、「誰でも入るだろ、みたいなヘディング(笑)。ジョホールバルの時にスライディングで押し込んだような、オイシイところを入れただけのゴールでした」。

 だが、そんなレアなゴールが、しかも2試合連続で生まれるあたりに、ストライカーとして覚醒した岡野が当時、どれほどノッていたかがうかがえる。

 岡野自身、「やっぱり、いいポジションにいたんだと思います」。そんな言葉で、絶好調時を振り返る。

「それまでだったら、もうちょっとサイドにいるところを、いつでもゴールをとれる位置にいたというか、ストライカー的なポジションにいたんだと思います。たぶん、点をとる自信があったから、そういうポジションをとっていたんじゃないのかな」

 当時の岡野は、試合中のPKキッカーも任されていた。当初はウーベ・バインが担当していたが、「調子がいいから、おまえが蹴れ、みたいな雰囲気になっていました」。

 ところが、1996年シーズンの最終戦。横浜フリューゲルスとの試合で得たPKを、岡野は蹴っていない。しかも、自らが倒されて得たPKだったにもかかわらず、である。

 岡野がそれを決めていれば、12点目。日本人選手としては、そのシーズンの得点王である三浦知良に次ぐ、2位タイとなる数だった。

 だが、浦和が2-0とリードしていたこともあり、岡野はそのPKを他に譲ることを決めた。それも、GK田北雄気に、だ。

「あれは、完全にエンターテインメントでした。でも、田北さん、PKうまかったんですよ。だから、『田北さんに蹴らせたら面白いんじゃない?』ってことになって。(当時監督のホルガー・)オジェックは怒っていましたけど(笑)。

 最終戦だったので、サポーターも喜んでくれるだろうなと思っていたら、田北さんが決めた瞬間、スタンドがどよめきましたからね」

 点をとることの快感に目覚めながら、自身の記録にはさほど頓着せず、GKによるゴールというJリーグ史上初の珍記録をアシストする。それもまた、岡野らしさなのかもしれない。

「それくらい、自分のなかに余裕がありましたよね。『ふざけんな、オレに蹴らせろ』みたいな気持ちはまったくありませんでした。サポーターの人が喜んでくれるのが一番いいなって思っていたし、それは試合に出ていた選手みんなが感じていたことだと思います」

 さも当然のようにそう語る岡野は、自身のキャリアにおいて燦然と輝く記念すべきシーズンをこんな言葉で表現する。

「自分のプレーにすごく納得できていたと思います。体も無理が利いたというか、言うことを聞いてくれましたしね。すごく楽しかったのは、今でも覚えています」

 それもこれも、すべてのきっかけは、ウルグアイ戦でのゴールである。

 岡野が国際Aマッチで決めたゴールは、わずかに2点。だが、岡野にとっては、"あの"ゴールも、"じゃないほう"のゴールも、いずれもが思い出深く、価値のあるゴールだ。

「日本代表で何十点もとっている人もいますが、僕にとっては、この2点がものすごく大きな意味を持っています。

 日本代表に選んでいただいて、ありがとうございます。あそこで、試合に出してもらってありがとうございます。今でもそう思えるくらい、重みのある2点だったと思っています」

(おわり)

岡野雅行(おかの・まさゆき)
1972年7月25日生まれ。神奈川県出身。1994年に日大を中退して浦和レッズ入り。1年目から35試合に出場。以降「野人」のニックネームで名を馳せ、主力選手として活躍する。1995年には日本代表にも招集され、1997年には"ジョホールバルの歓喜"として知られるW杯アジア第3代表決定戦で劇的なVゴールをゲット。日本を初のW杯出場に導いた。その後、ヴィッセル神戸、香港のTSWペガサス、ガイナーレ鳥取でもプレー。2013年シーズンを最後に現役引退。引退と同時にガイナーレのGMに就任した。2017年には同代表取締役GMとなり、現在はクラブ強化に尽力している。国際Aマッチ出場25試合2得点