「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第24回 高橋善正・後編 (前編「石で鳥を落とすコントロールの投手」を読む>>) …

「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第24回 高橋善正・後編
(前編「石で鳥を落とすコントロールの投手」を読む>>)
ひと味違う「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫る人気シリーズ。高橋善正(よしまさ)さんといえば、その小気味よいサイドスローが脳裏に浮かぶオールドファンも多いだろう。今シーズン、"令和の怪物"佐々木朗希(ロッテ)がNPB史上16人目の完全試合を達成したばかりだが、高橋さんは「史上12人目」でありながら、その状況は佐々木とはまったく異なるものだった。
1966年に中央大からドラフト1位で東映入りすると、ルーキーイヤーの67年にいきなり15勝を挙げて新人王を獲得。2年目の68年も13勝を挙げたが、続く69年は3勝11敗、70年は2勝9敗と成績が急降下してしまう。自信を失い、プロ野球に見切りをつけようとするほど追い込まれたなかから、翌71年、パーフェクトの快挙達成へ。その不思議な軌跡を振り返る。

1971年、パーフェクト達成で胴上げされる高橋善正。後楽園球場の電光掲示板が懐かしい(写真=産経ビジュアル)
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不調に陥った原因は69年の開幕前にあった。ランニング中、排水溝に落ちて腰を痛めたのだ。普段とは違う初めてのグラウンドで全力で走っていたため、溝に気づけなかった。今の時代なら即、登録抹消だろう。しかし開幕投手が決まっていた高橋さんは黙って調整を続けた。
「オープン戦、すごいよかったのよ。よし、今年は20勝てるなと。それが腰を壊して、どっか筋をおかしくして、投げられないわけじゃないけど、何となくしっくりこない。腰がヒュッと切れないから、ボールが全然ダメ。シュートもイメージどおりにいかない......。
それで勝ち星が少なくなると自信がなくなって、4年目が終わったとき、ゴルファーになろうかなと思った。でも問い合わせたら給料5万円ぐらいで、それじゃあ家のローンもあるし、女房もいたから、食っていけない。これはもう仕方ない、クビを覚悟して野球をやるしかないと。だから、完全試合できるなんてまったく思ってないわけだよ」
実際、71年の前半は二軍暮らし。オールスターゲーム直前に一軍に昇格して、勝ち星は3つで迎えた8月21日、後楽園球場での西鉄(現・西武)戦だった。
「試合前にブルペンで投げていたらシュートのキレが悪い。1回でダメだなと思ってた」
それでも1回は三者凡退。普段から一緒に食事をして酒も飲む二塁手の大下剛史、遊撃手の大橋穣が「完全試合だぞ」と冷やかしたという。何だかゾクッとさせられる話だが、高橋さんは「うるせえ!」と返した。
「ヤツら、2回も『完全試合だぞ』って言ったんだよ。で、3回も言った。6回までずーっと言ってたんだ、ベンチに帰るたんびに。それで7回になったら言わねえから、『おまえら、なんだ? 緊張してんの? おまえら緊張してエラーなんかするんじゃないぞ』ってオレが逆に言って。でも、そのときだってやれると思ってない。冗談だもん」
東映打線は4回に一挙4点を取って援護していた。反対に西鉄打線は、シートノックのような打球ばかりだった。「高橋善正といえばシュート」というイメージで臨んだところ、本人はシュートのキレが悪いために投球割合を減らし、スライダー、カーブを多投したため、裏をかかれた可能性があった。なおかつ、前年の"黒い霧事件"の影響でメンバーが若手中心になっていたこともあった。
そうして9回を迎え、先頭打者、新人・米山哲夫の当たりは低いライナーで二塁ベース寄りに飛ぶも、大下が横っ飛びでキャッチ。ファインプレーに助けられた。続く村上公康が打った三塁方向へのゴロはボテボテで内野安打かと思われたが、三塁手の中原勝利が巧みに処理して間一髪アウト。あと一人になって、「シュート打ちの名人」と呼ばれる和田博実が代打で出てきた。捕手・種茂(たねも)雅之のサインは「外のスライダー」だったが、高橋さんはこの試合で初めて首を振った。
「このときだけは完全試合を意識した。ここまできたらやらなきゃソンと思っただけの話でね。で、オレはシュートのキレが悪くて、相手バッターはシュート打つのがうまい和田さん。それで種茂さんはスライダーのサインを出したわけだけど、オレはシュートピッチャーなんだから。
高校、大学、プロとシュート一本できて、特にプロで生きてきた証(あかし)なんだから、シュートほうらないと悔いが残る、と思ったんだよ。それで打たれてもいいや、と思ったし、スライダー投げて打たれちゃったら一生、悔いが残る。シュート打たれて完全試合できなくても、あのときスライダー投げてたらよかった、とは絶対に思わないから」
これまで以上に、声に力が込められていた。「プロで生きてきた証」という言葉にハッとした。「クビを覚悟して野球をやる」と決意したからこそ、最後の最後で「生きてきた証」に行き着いたのではないか。しかもその「証」は腰を痛めてから本来の威力がなくなり、クビを覚悟する要因にもなったのだ。すなわち高橋さんの投手人生が凝縮された一球が選択され、初球、和田のバットがとらえた打球はレフト方向に高々と上がったが、左翼手の張本勲が捕って完全試合が達成された。
「86球だよ。それで三振が1個なんだ。どうせならゼロにしたかったなと、あとで思った。そのときは勝つことしか考えてなかったよ」

「完全試合でクビがつながった」と語る、取材時の高橋さん
日本のプロ野球史上15人が達成した完全試合のうち、奪三振1は最少。他のアウトの内訳は内野ゴロ15、内野フライ7、外野フライ4だった。大記録達成を伝える野球雑誌の記事には〈クビの心配消える快挙〉と見出しがついたが、何か変化はあったのだろうか。
「大して変わらなかったな。今みたいにマスコミが大騒ぎしない、テレビもやってない、球団からは10万ぐらいしかもらってないし。決まってすぐに胴上げされたけど、そのあとはオレに対する周りの見方も一緒だったよ。ただ、完全試合の次の試合から3つ勝って、その年は7勝11敗だった。前の年は2勝だったから、それでクビがつながったのは確かだね」
翌72年には10勝を挙げた高橋さんは、明けて73年の1月、小坂敏彦、渡辺秀武との交換トレードで巨人に移籍する。当時の川上哲治監督が要望したようだが、マスコミは〈最も練習量の少ない東映から、最も猛練習で知られる巨人に来た男〉と表現した。
「オレは東映に6年間いたわけだけど、キャンプでさ、巨人での練習1年分というのが、東映での練習6年分を全部足したよりもっと疲れた。まず朝は散歩だろ? 出発前は川上さんのミーティングだろ? で、夜も休みの前の日以外は全部ミーティングがあって、川上さんがやらない日は担当コーチ。飯どきは酒飲んじゃダメだし、ビールもダメ。東映のキャンプなんか、一升瓶を横に置いて麻雀やってるヤツもいたんだけどな」
前年まで日本シリーズ8連覇を成し遂げていたチームと、68年からBクラスが続いていたチームとの大きな差がそこにあった。
「でも、柴田勲なんかもそうだったけど、やかんに氷入れて、焼酎入れたら、水飲んでるみたいにしか見えないだろ? フッフッフ。そのぐらいの息抜きはしないとな」
隠れて息抜きをしないと続けられないほど、キャンプでの練習は厳しかった。そのなかで長嶋茂雄、王貞治の二人が、ほかの誰よりも多くの練習量を平然かつ黙々とこなしているのを見て高橋さんは驚愕した。
「あの二人は特別だね。練習量もそうだし、若い選手に怒ったり、偉そうにしたりもしないし。普通、他球団だったら、東映での張本さんもそうだったけど、チームを代表するようなヤツは、みんな『おう、おう』ってなもんだけど、あの二人はそういうのが全然ない。人の悪口は絶対に言わないしな」
激変した環境下で調整した高橋さんだったが、高橋一三、堀内恒夫が柱の投手陣で登板機会は減少。V9が達成された73年は25試合の登板で1勝に終わり、翌74年も24試合で2勝1セーブと救援登板が増えた。[ミスタージャイアンツ]と呼ばれ、惜しまれて現役を引退した長嶋が監督に就任した75年は心機一転、〈善正〉から〈良昌〉に改名して臨み、ほぼ救援登板に徹した。
「巨人が10連覇を逃したとき、オレは完全にクビになると思っていた。そしたらミスターが『誰もクビにしない』って言って、監督になった。じゃあ、ミスターのためにやろうと。だから、その年から自分の勝ちだとか、一切、考えないで、マウンド上がったときにベストを尽くそうと思った。そうなると人間、強いね。ピンチだろうが、1点差だろうが、全然、関係ねえんだもん」
75年、高橋さんは自己最多にしてチーム最多タイの53試合に登板。大車輪の働きだったが、巨人は球団初の最下位と低迷した。
「監督がミスターに代わったら、川上さんの頃のグワッと選手を締め付けていたのが少し緩くなったんだよ。戦力ダウンも当然あったけど、縛りから解かれたみたいな感じでさ。9連覇に貢献した選手たちが衰えてきた上に、気持ちが緩んじゃった。だから、だらだらと、ヨーイドンからずっとビリだよ」
これは東映から移籍し、巨人の練習の厳しさに驚いた高橋さんならではの実感だろう。それでも翌76年は戦力補強が奏功してリーグ優勝を成し遂げ、77年は連覇。すると、同年限りで高橋さんは現役を引退してコーチの道を歩み始めるのだが、思わぬところで東映でのキャンプ経験が生きることになる。
前年=78年の2位から5位に下降した79年のオフ。長嶋監督からコーチ陣に向けて「巨人の将来を背負って立つ若手を徹底的に鍛えたい。血反吐(ちへど)を吐かせるまでやる」と要請があり、キャンプ地が静岡の伊東と聞いたときのことだ。
「東映での6年間、伊東でキャンプをやっていた。それでオレは伊東のことをよく知っていたから、監督の望みどおりに選手を鍛えるなら、馬場平しかねえと思った。1周800メートルのクロスカントリーコースだよ」
のちに"地獄の伊東キャンプ"と称された、当時では珍しかった秋季キャンプ。"地獄"の象徴が、起伏の激しい馬場平を10周、タイムを計られた上で走る練習だった。参加メンバーは江川卓、西本聖、鹿取義隆ら投手6人、中畑清、篠塚利夫ら野手12人。少数精鋭18人の若手が筋力強化、走り込みで体を鍛え、投手は1日に25分の投げ込み(約100〜200球)、野手は1000スイング以上の打撃練習が義務づけられた。
結果、18人の中から数多くの主力選手が育ったのだが、つい前日に見たスポーツ紙に、2017年の巨人の秋季キャンプは少数精鋭で"地獄"になる、野手は1日1500スイングが目安、ということが書かれた記事が載っていた。そのことも踏まえて、高橋さんは巨人再建についてどう考えているのだろうか。
「何をもって地獄なのかわかんないけど、オレは若い選手をつくって、育てるほうがいいと思う。巨人はもう、そんなに優勝しないんだから。昔みたいに、V9のときみたいに勝てないんだから。だったら、若い選手は我慢して長く使ってあげないと。
無理に、勝つために外国人、FAの選手を獲っちゃうと、一軍に行けそうなところで一生懸命やって、何とか来年は、と思ってるヤツが、ああまたダメだと思っちゃう。それでやる気がそがれるところがないとは言えないな。プロだから、競争だから、そんなことじゃダメだっていう人もいるけど、人間だから、また出れねぇやとなったら......。あとはコーチだって、よその球団で実績を残した人をもっと注入していい。OBのコーチじゃなくて、よそから獲ってくればいい」
折しも、巨人の新コーチングスタッフが発表されたばかりだった。高橋さんはあらためて身を乗り出して言った。
「オレはコーチのとき、食べるときも酒を飲むときも、必ず壁を背にしていた。オレを恨んでる選手がいるかもしれないし、後ろから殴りかかられたら悔しいからな。地獄を見た選手は大変だったろうけど、やらせたオレだって命がけの覚悟を持ってたんだよ」
(2017年10月20日・取材)