村田諒太が今、思い出した「ガキの頃の気持ち」 ボクシングのWBAスーパー・IBF世界ミドル級王座統一戦が9日、さいたまスーパーアリーナで行われ、WBAスーパー王者・村田諒太(帝拳)がIBF王者ゲンナジー・ゴロフキン(カザフスタン)に9回2分…

村田諒太が今、思い出した「ガキの頃の気持ち」

 ボクシングのWBAスーパー・IBF世界ミドル級王座統一戦が9日、さいたまスーパーアリーナで行われ、WBAスーパー王者・村田諒太(帝拳)がIBF王者ゲンナジー・ゴロフキン(カザフスタン)に9回2分11秒TKO負けし、番狂わせはならなかった。興行規模が20億円を超える日本史上最大のビッグマッチ。下馬評では圧倒的不利だった村田は歴史的選手に敗れ、2度目の王座陥落を喫した。

 何度強打を受けても立ち向かった激闘。試合ができなかった2年4か月の間に自問自答を続け、「自分は何を表現したくて生きてきたのか」と見つめ直した。1万5000人の観衆に感動を与えた9ラウンドの攻防。キャリアの晩年を迎え、たった一つの想いを胸に拳を振っていた。戦績は36歳の村田が16勝(13KO)3敗、40歳のゴロフキンが42勝(37KO)1敗1分け。(文=THE ANSWER編集部・浜田 洋平)

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 負けない。負けたくない。意識が朦朧とする。角度を変え、何十発も飛んでくる岩のような拳。でも、村田は決して引かなかった。視界に映る世界最強のボクサー。血が滲み、傷だらけになった顔を鬼の形相に変え、反撃に出た。ただ、強くあるために――。

 838日という超異例の長期ブランクだった。最後の試合は2019年12月23日。試合が決まりかけては流れることを繰り返し、コロナ禍に翻弄された。趣味は読書、とりわけ良く手に取るのは哲学書。試合のない期間も脳みそをフル回転させ、物事の考え方を深めた。

 地頭が強い希代のボクサー。思考が激しくぶつかった。

「自分は何に興味があるのだろう。自分は何を見せたいのだろう。何にそんなにこだわってきたのだろう。何を目標にしてきたのか。何を表現したくて生きてきたのか」

 頭の中をグルグルと駆け巡った。2年に及ぶ自問自答。たどり着いた答えはシンプルだった。

「強いのを見せたい。強さという評価で、人より下は嫌。誰に強さを証明したいのか。自分自身に証明したい」

 中学3年の初夏。“ヤンチャ”だった14歳は、喧嘩よりもルールのあるボクシングに興味を持ち始めた。手を焼いた先生に「お前、ちょっとやってみろ」と勧められてはめたグラブ。厳しい、苦しい。自信は打ち砕かれ、たった2週間で逃げ出した。持て余した腕力と時間。「僕も特別でいたかった。ボクシングにすがるしかなかった」。再びリングに戻った。

「すがるしかない。それはいまだに続いている。正直、ボクシングを取った自分に自信がないと思うこともある。だから、続けていくには『カッコつけなければ』と」

世界王者の中で「格下」と言われた日々「反骨心が湧いてくる」

 強豪・南京都高(現・京都廣学館高)に進み、アマチュア高校5冠を達成。仲間から信頼され、勝てば喜ばれた。その中で「ビビッて実力を出せなかった」と唇を噛んだ試合もある。常に強くあることを求め、世界選手権銀メダル、ロンドン五輪金メダルを掴みとった。

 世界的に層が厚く、とてつもない猛者が揃うミドル級。17年10月に初めて世界王座に就いたが、WBA世界ミドル級の「正規王座」だった。さらに上の「スーパー王座」に君臨していたのがゴロフキン。世界には4団体があり、王者たちの中でも村田は格下とされてきた。

「実際、米国で自分の名前が売れているかと言われたら、『WBAのレギュラー(正規)なの? ふ~ん。カネロ、ゴロフキンと違うだろ。あいつらがトップだろ』と思われている。第1の男、第2の男、第3の男でもないという自分の立場を見ると、反骨心が湧いてくる」

 18年10月、2度目の防衛戦でロブ・ブラント(米国)に敗れた。1200発超のパンチを浴びる完敗。直後は引退するつもりだった。聖地ラスベガスで晒した弱い自分。「あのボクシングが集大成でいいのか。それは嫌だ。後悔したくない。自分に永遠に嘘をつくことはできない」。9か月後に感動の王座奪還。やっぱり、強くありたかった。

 だから、今回のビッグマッチが決まった時に強調した。

「彼を倒して僕が最強だと証明したい。やっぱりカッコいいとか何とかって、僕の中ではクソどうでもいい。強いのを見せたいんですよ。自分がボクシングを始めたガキの頃の気持ち。それを思ってボクシングを始めた。別に顔のカッコよさ、頭のよさとかは人より下でいいわけです。でも、強いのを見せたくて自分はやってきた」

 有名になった、何万人の客を集めた、ラスベガスで試合をした、何億円を稼いだ、そんなことで自己肯定感は得られない。五輪金メダルからプロで世界王者に。ミドル級で初防衛成功。数々の「日本人初」の偉業にも「大した記録じゃない。そんなん別にそそられない」と興味は湧かなかった。

 村田はただ、「強さ」を表現したくて生きてきたのだ。

試合後に自分を「評価」したこと「お客さんが帰らずにいてくださった」

 プロ1年目の2014年7月、米国合宿でゴロフキンとスパーリング。「世界の壁の高さを感じた。でも、同時に登りたいと思った」。8年間、必死で上を目指し、「強さ」の頂きにいるカザフスタンの英雄とついに拳を交えた。

 心を燃やし、立ち向かった9ラウンドの死闘。右フックを側頭部に被弾した。もう、立てない。182センチの巨体が膝から崩れ落ちた。プロ初ダウン。陣営からついにタオルが投げられた。四つん這いでうつむき、悔しそうに表情を崩した。

 試合後の声はいつも通り冷静だった。

「36歳でまだ続けていて、ボクシングで何を証明したいんだろう、何を得たいんだろう、何ができるのか、いろんなことを考えていた。やっぱりいろんなことで強さを証明したかった。その強さっていうのは何なのか。

 中学ですぐに逃げ出してしまうような弱い自分、高校生で出た全日本選手権決勝でビビッて実力を出せなかった思い出、北京五輪に出場できず真剣になれなくて終わってしまった自分。どれも不甲斐なかった。そう思うと、ちゃんと向かっていくことが大事。自分自身を律して恐怖に向かっていったんだという気持ち、自分自身で乗り越えたんだという気持ち、それを得たいと思ってやっていた」

 負けはした。でも、この試合を見て、誰が弱いと言えようか。強く、勇敢だったことは誰も否定できない。「試合が終わって、お客さんが帰らずにいてくださった。その事実に対しては、自分のことを評価してあげてもいいかな」。ベルトを失ったが、自分を裏切ることなくやり遂げた。「強さ」とは何かを表現し、戦い抜いたことに嘘偽りはない。(THE ANSWER編集部・浜田 洋平 / Yohei Hamada)