ワールドカップでの日本代表の対戦相手と会場が決まった。日本代表にとっては、慣れ親しんだスタジアムとなる。蹴球放浪家・後…

 ワールドカップでの日本代表の対戦相手と会場が決まった。日本代表にとっては、慣れ親しんだスタジアムとなる。蹴球放浪家・後藤健生が、日本代表とスタジアムの「絆」を回想する。

■日本が慣れ親しんだスタジアム

 カタール・ワールドカップの日程が決まりましたね。日本代表は11月23日にドイツとの初戦を迎え、12月1日にスペインと第3戦。ともにワールドカップ優勝経験国(それも、過去3大会以内の優勝経験国)との対戦となります。そして、会場はどちらもハリファ国際スタジアムです。

 長くカタールという国のナショナル・スタジアム的な地位にあったスタジアムで、2011年のアジアカップ決勝戦もこのスタジアムで行われ、日本はオーストラリアと対戦。延長後半109分に長友佑都のクロスに合わせた李忠成が見事なボレーシュートを決めて、日本にとって4度目のアジアカップ制覇となりました。

 この大会では、日本がこのスタジアムで戦ったのは決勝戦だけでしたが、それ以前にも日本は何度もこのスタジアムで戦った経験を持っています。

 ドイツやスペインとの試合を慣れ親しんだスタジアムで戦えるという事実は、日本代表にとってはポジティブな要素と言っていいでしょう。

■初めての中東遠征

 森保一監督自身もこのスタジアムで戦ったことがあります。そう、1993年10月のアメリカ・ワールドカップ・アジア最終予選の時です。

「ドーハの悲劇」で知られるイラク戦は小さなアルアリ・スタジアムでしたが、これは3試合を同時刻に開催するためであって、その他の試合はすべてハリファ国際スタジアムで行われました。

 僕にとっても、カタールを訪れるのはこの時が初めてのことでした。

 いや、中東を訪れるのも同年春の一次予選でアラブ首長国連邦(UAE)が初めて。馴染みのないイスラム教国ということで、選手たちも、サポーターたちもかなり緊張したものです。日本サッカー協会からは「お祈りの時間には応援を控えるように」とのお達しがありましたが、現地人もお祈りの時間になっても普通に応援していたので、そのうち日本人もお祈りを呼びかける「アザーン」が聞こえてきてもまったく気にしなくなりました。

 今は、原油や天然ガスといった天然資源が生み出す豊富な資金を使って経済発展を遂げ、ワールドカップ本大会を開催するまでになったカタールですが、30年近く前はまだまだ発展途上にありました。

■エティハド航空の誕生前

 カタールは1971年に英国から独立した国ですが、現在のような発展を始めるのは1995年にアル・サニ家の第6代首長ハリファが息子のハマドによって追放されてからのことです。1993年当時、UAEのドバイ空港はすでに国際的なハブとなっていましたが、カタールのドーハ空港はまだまだローカル空港といった雰囲気でした。

 当時は日本から中東への直行便はありませんでしたから、東南アジア系の航空会社で行くか、東南アジアで中東最大のガルフ航空に乗り換えて行くのが普通でした。アジア最終予選の時はマレーシア航空でドバイまで行って、そこでガルフ航空に乗り換えてドーハ入りしました。「ガルフ航空」はUAEのアブダビ首長国とバーレーン、オマーンが共同出資で設立した中東最大の航空会社。ドバイ首長国のエミレーツはまだ新興企業でした。

その後、アブダビは独自に「エティハド航空」を設立。「ガルフ」はバーレーンだけの会社として存続しています。

 ところが、ドーハ空港に到着してみると、そこには大きな文字で「カタール」と書かれた機体が存在したので、「ああ、『カタール航空』なんていうのがちゃんとあるんだ」と感心した記憶があります。今は世界に冠たる巨大航空会社となったカタール航空ですが、調べてみると正式な設立は1993年11月とありますから(現在の体制になったのは1997年)、“あの時”はまだ準備の最終段階だったのでしょう。

 カタールの街も小さなものでした。旧市街から海(ウェストベイ)を隔てた対岸の湾岸地区には今では高層ビルが立ち並んでいますが、1993年当時は選手団が泊まっていたシェラトン・ホテルだけが蜃気楼のように輝いていました。

 ハリファ国際スタジアムは、現在は有名なトレーニング施設であるアスパイア・センターや体育館など多くのスポーツ施設、そして「ヴィラッジョ」という大きなショッピングモールなどに囲まれています。しかし、1993年当時は砂漠の真ん中にポツンと建っており、屋根もメインスタンドの一部に付いているだけの、シンプル極まりない陸上競技場でした。

 アジア最終予選は大波に翻弄されるような展開となりました。初戦はサウジアラビア相手にガチガチの試合でスコアレスドロー。2戦目はイランに敗れて1分1敗の最悪のスタートとなりましたが、北朝鮮に3対0と解消すると、さらに韓国にも勝って日本は一気に首位に立って「最後のイラク戦に勝てば予選突破」という状況になったのです。そして、イラク戦はあのアディショナルタイムの同点ゴールによって引き分けに終わり、ワールドカップ初出場の夢は閉ざされてしまいました。

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