■第3キーパーに与えられた使命と試練波瀾万丈に富んだ、という言葉がここまで鮮やかに当てはまる人生もない。ワールドカップ・アジア最終予選を戦っている日本代表に続いてフランスの地でも、川島永嗣が守護神として眩い輝きを放ちはじめた。リーグアンのF…
■第3キーパーに与えられた使命と試練
波瀾万丈に富んだ、という言葉がここまで鮮やかに当てはまる人生もない。ワールドカップ・アジア最終予選を戦っている日本代表に続いてフランスの地でも、川島永嗣が守護神として眩い輝きを放ちはじめた。
リーグアンのFCメスに所属する川島は、日本時間7日未明に行われたリール戦で先発フル出場。日本代表のバヒド・ハリルホジッチ監督がかつて指揮した相手に、移籍後で初めてとなる完封を達成した。
連勝をマークしたメスは勝ち点を42に伸ばして、20チーム中で13位に浮上。リーグドゥとの入れ替え戦に回る18位のディジョンとの勝ち点差を9に広げ、2試合を残してリーグアン残留を決めた。
9日に更新した自身のオフィシャルブログで、チームに貢献できた喜びを川島はこう綴っている。
「昨シーズンのリーグアン昇格、そしてそこからの今回のリーグアン残留はクラブにとって本当に大きなステップです」
川島自身も大きなステップを踏み出していた。昨年8月にメスへ移籍したとき、チーム側は「エイジは第3ゴールキーパーを務めることになる」と異例の声明を発表している。
フランス代表にも選出された21歳の守護神トーマス・ディディロン、リザーブを務める26歳のダヴィ・オーバーハウザーへ「豊富な経験をもたらしてほしい」と、ピッチ外の部分で大きな期待を寄せられていた。
昨年10月30日のレンヌ戦で初めてベンチ入りを果たしたが、ゴールマウスを守る機会は訪れない。その後はベンチ入りとベンチ外を、2試合ずつ繰り返すローテーションが組まれた。
ベンチを外れたときは、十代の若手選手たちにまじってリザーブリーグでプレーする。3月で34歳となり、ベテランの域に達した川島は、メスでの日々をこう振り返ったことがある。
「リーグ戦では試合に出られない立場なので、コンディションがどうこうというよりも、とにかく毎日の練習のなかでアピールするしかない。普段からやれることをやるしかないと思ってきた」
■UAE代表戦後に思わず号泣した理由
移籍市場が開いた今年1月にはJクラブからのオファーも受けたが、ヨーロッパでの挑戦を継続させた。迎えた3月23日。UAE(アラブ首長国連邦)の地で、ターニングポイントが訪れる。
負ければワールドカップ・ロシア大会出場へ黄信号が灯るUAE代表との大一番へ。ハリルホジッチ監督は浦和レッズで失点を重ね、精彩を欠いていた西川周作ではなく、川島を先発として抜擢した。
昨年6月のブルガリア代表との国際親善試合以来となる代表戦のピッチ。公式戦となると、2015年6月のシンガポール代表とのワールドカップ・アジア2次予選にまでさかのぼらなければならない。
「アウェイで、しかも予選の今後を占う重要な試合でしたし、その意味ではいろいろな思いが試合前にありました。でも、長く代表でやらせてもらっている分、そういう意味での感覚といった部分に関しては心配していなかった。とにかく集中して目の前の90分間に臨むだけだ、という気持ちで入りました」
果たして、前半21分に訪れたあわや同点のピンチで、川島は冷静にシュートコースを限定させ、最後は左足にシュートを当てて防いでいる。ベンチで戦況を見つめていた西川は、思わず心を震わせている。
「本当に“超”のつくアウェイの環境のなかで落ち着いていて、パーフェクトに近いプレーをしていた。ゴール前での迫力、1対1の場面での体の使い方やコースを消す技術は本当にすごいし、あれは永嗣さんにしかできない。メンタルの強さも含めて、自分も見習っていかないといけない」
試合は2‐0で日本代表が快勝し、川島は最後尾で大きな存在感を放ってチームを安心させた。もっとも、計り知れないほど大きなプレッシャーと、メスで試合に出ていないことへの不安とも戦っていたのだろう。
UAE戦で存在感を放った(c) Getty Images
後に更新したオフィシャルブログでは、UAE戦を終えたばかりのロッカールームで、人目をはばかることなく号泣したと綴っている。
「多分、この涙は死ぬまで忘れない涙だと思います」
■実力と経験で覆したヒエラルキー
場所を埼玉スタジアムに移した3月28日のタイ代表戦でもフル出場した川島は、終了間際にはPKをセーブ。連続完封勝利を飾った日本は、グループBの首位に初めて浮上した。
「代表での2試合は、大きな自信につながった。メスのスタッフがどのような判断をするのかはわからないけど、目指しているプレーのレベルを練習のなかでも、自分が出る試合のなかでも出していきたいし、納得させられるようにやっていきたい」
タイ代表戦後にこう言い残し、川島はフランスへ戻っていった。納得させる対象とは、もちろん自分自身とメスの首脳陣。そして、代表でのプレーが川島自身への強烈な追い風を吹かす。
4月に入っても川島とオーバーハウザーのローテーションは続いていたが、リーグアンへの熾烈な残留争いが重い十字架と化したのか。守護神ディディロンが精彩を欠き、大量失点を続けてしまう。
迎えた4月18日。ホームに強敵パリ・サンジェルマンを迎えた一戦で、メスはディディロンを一時的に休養させる。代わりにゴールマウスに立ったのは、本来ならばベンチ外の川島だった。
試合は2‐3で敗れたが、川島のプレーは一定の評価を得る。ディディロンが復帰した続くロリアン戦で1‐5の惨敗を喫すると、川島がレギュラーに昇格することが決まった。
シーズン中でゴールキーパーのヒエラルキーが覆されることは珍しい。ましてや第3ゴールキーパーから正守護神へ、となると極めて異例のケースといっていい。
濃密な経験をその体に刻み込んできた川島ならば、残留争いのプレッシャーに打ち克つと首脳陣は望みを託したのだろう。川島が最後尾を守るメスは連勝を果たし、リーグアン残留を決めた。
ベンチで見ていたディディロンは、おそらく日本代表の西川と同じ思いを抱いたはずだ。経験を下の世代に伝える作業に関して、川島はこんな言葉を残している。
「話すだけではなく、自分がプレーを通して示していかなければ意味がない」
■波瀾万丈のすべてを糧に変えて
日本代表がベスト16進出を果たし、日本中を熱狂させたワールドカップ南アフリカ大会の余韻がまだ残っていた2010年夏。川島は川崎フロンターレからベルギーのリールセへ移籍した。
大会直前に楢崎正剛(名古屋グランパス)からレギュラーを奪い、全4試合にフル出場して守った直後の旅立ち。もっとも、川島自身は早い段階から、27歳になる年での海外挑戦を決めていた。
「ヨーロッパではもともと、ゴールキーパーの役割や存在感といったものが大きい。そのなかで外国人のキーパーがプレーしていくためには、ヨーロッパ人よりもいい部分やプラスアルファを出していかないといけない。プレーの面でもメンタルの面でも、日本にいたときよりも強さや厳しさを求められるので」
ダンディー・ユナイテッドFC在籍時代(c) Getty Images
プロのキャリアをスタートさせたのは2001シーズン。当時J2の大宮アルディージャで練習に明け暮れながら、英語とイタリア語を習得。いまではポルトガル語、スペイン語に加えてフランス語にも不自由しない。
2004シーズンにはグランパスへ移籍。リザーブに甘んじることを承知のうえで楢崎の一挙手一投足を学び取り、リーグ戦で113試合に先発フル出場したフロンターレでの3年半へ続けた。
リールセから移籍したベルギーの名門スタンダール・リエージュでは、3年目の2014‐15シーズンにレギュラーを剥奪された。その後は浪人状態となり、ハリルジャパンにも招集されなくなった。
シーズン途中でようやくスコットランドのダンディー・ユナイテッドFCに加入したが、チームは2部へ降格。第3キーパーとして加入したメスを含めたサッカー人生を、川島はこう振り返る。
「自分が計画した通りにいかないのが人生であり、サッカーだと思う。自分のなかでは意味があって挑戦しているし、そういう(不遇な)時期があったからこそ自分も成長できると思っているので」
考え方ひとつで、波瀾万丈のすべてが自分の糧になる。サッカーという枠を飛び越え、必死に生きるすべての日本人に勇気と希望を与えながら、川島の挑戦は続く。
川島永嗣 参考画像(2017年3月23日)(c)Getty Images
川島永嗣 参考画像(2016年4月16日)(c)Getty Images
川島永嗣 参考画像(2016年11月11日)(c)Getty Images