南浦和中サッカー部・神立朋次監督インタビュー前編、武南高を卒業後に英国留学 さいたま市立南浦和中学校の神立朋次さん(56…

南浦和中サッカー部・神立朋次監督インタビュー前編、武南高を卒業後に英国留学

 さいたま市立南浦和中学校の神立朋次さん(56歳)は英語科教諭であり、サッカー部監督でもあるが、教職に就くまでの道のりは普通の教員とは一線を画し、ずいぶんと回り道をしている。40歳でこの道に入ると、独自の手法で赴任した先々のサッカー部を強化したばかりか、学校生活あっての部活動という強い信念を貫いてきた。

 2016年に着任した南浦和中でも独自の指導法で個を磨くと、チームとして結果を残し、20年11月の高円宮杯全日本ユース(U-15)選手権関東大会に、唯一の中体連チームとして出場している。公立中学を率いて、毎年好チームを作り上げる見事な手腕に注目が集まるなか、前編では風変わりな経歴を持つ中学教師が誕生するまでの足跡を辿った。(取材・文=河野 正)

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 サッカーの町・浦和市(現・さいたま市)で生まれ育った生粋の“浦和っ子”である。

 全日本少年サッカー大会(現・全日本U-12サッカー選手権)は、神立さんが小学6年生の1977年に第1回大会が開催され、浦和市に隣接する与野市(現・さいたま市)の下落合サッカースポーツ少年団が、清水FC(静岡)と初代王者を分け合った。この年の同じ8月には、浦和本太中が全国中学校サッカー大会で2度目の栄冠に輝く。

 68年に創設された老舗の少年団、浦和岸町サッカースポーツ少年団に所属していた神立さんにとって、身近な2つのチームの日本一は、とても刺激的な出来事だった。

 埼玉県サッカー協会副会長を務めた池田久さんが指揮を執ったこともある浦和白幡中では、2学年下に岸町少年団からの僚友・田北雄気がいた。浦和レッズ時代の96年、Jリーグ4年目にしてGKによる初ゴールを記録したキックの名手だ。

 高校は勢力を拡大させていた武南に進み、1年生の時の第60回全国高校サッカー選手権では2度目の出場で初優勝を遂げた。当人は、数えるほどしか公式戦出場はなかったが、大山照人監督の指導力と人間的な魅力に深い感銘を受け、3年間やり切った。

 神立さんの遍歴が異彩を放つのは高校卒業後。ここからの約20年が、なんとも奇想天外な生き様なのだ。

 大学や専門学校に進む型通りの進路に違和感を覚え、英国留学を断行する。「普通じゃつまらないと思いましてね、あの頃は。人と違うことをやるのが好きで、あまり深く考えずにロンドンに行っちゃいました。人生の武者修行というやつですかね」と笑う。

塾講師、旅行代理店を経て知人と起業

 当地の語学学校では英語のほかイタリア語も学び、半年弱はローマでも生活した。サッカー観戦は日常の大事な習慣でもあった。現在のプレミアリーグではなく、名称がイングランドリーグという時代だ。「しょっちゅう見ていたアーセナルは、留学した頃にまた強くなっていたんですよ。チェルシーなんか今とは全然違い、2部落ちもあって弱かったなあ」と35、6年前を懐かしむ。

 1988年に当時の西ドイツで開催された第8回欧州選手権は、オランダ-ソ連の決勝だけ入場券が手に入らなかったが、とりあえずミュンヘンのオリンピックスタジアムに出掛けた。そこで考えたのが自分で服を切り裂き、オランダのフーリガンにチケットを取られたという“狂言”を演じること。警察官に訴えたら、まんまと成功した。「生きる力ですよね」とニンマリすると、「まだ日本人がほとんどいなかった時代に、(マルコ・)ファン・バステンのスーパーゴールを生観戦できて嬉しかった」と振り返る。

 89年9月、金欠と郷愁に駆られてやむなく帰国。国際電話の通話料は高いし、SNSなど存在せず、日本の情報も入手できない時代だ。

 帰国後はすっかり身に付いた英語を生かし、塾の講師をしていたが、間もなく旅行代理店の東急観光(現・東武トップツアーズ)に就職。外国人専門の部署に配属され、来日した外国人観光客のアテンドが主な業務で、海外に出張して営業をこなす役割も担った。やりがいを感じながら勤めていたものの、海外赴任を命じられた30歳で退社する。

 神立さんは26歳の時、出身団体の岸町少年団で2年間コーチを任された後、母校の浦和白幡中の外部コーチに就任。9年間指導した。

 当時はサッカー専門の顧問が不在で、保護者から少年団に指導者派遣を依頼されたのだ。外部コーチのはしりでもあった。「人に何かを教えることが楽しくなり、興味が湧いてきた時だったんです。海外に転勤したら指導できなくなりますからね、すっぱり辞めました」と言うのだから、割り切りの早い人だ。

 今度は知人と2人で会社を立ち上げ、日本では先駆けというネックウォーマーを輸入し、ニット帽や手袋と一緒にスキー場で販売。ワゴン車に積んで全国を走り回った。当時は競合する業者も少なく、業績は右肩上がりで伸びていった。

教師を目指す原点にあった武南高の恩師への憧れ

 仕事も板につき経営も軌道に乗っていたが、一念発起して教員免許取得のため通信制大学へと進む。36歳だった。「大山先生の影響がものすごく強く、若い頃から教師への憧れがあったんですよ」と最後のキャリアを教員に求めた理由を説明した。

 2019年3月末で武南高のサッカー部を退任した大山前監督のどこに惹かれたのか――。「何があっても信念を貫き通し、人に迎合しないところ。高校生の頃から強烈な個性を感じていました」と述べる。

 通信制大学は大変だったそうだ。「教材や宿題、課題が届くとレポートを提出し、OKならテストを受けられます。誰も教えてくれないし、今みたいにスマホで手っ取り早くチェックできないので、図書館でなんでも調べましたよ。教職課程を履修していた上、仕事もあったからほかの学生より多忙でした」という生活を2年間続けた末、念願の教員免許を取得。経営していた会社の引き継ぎを経て06年4月、ピカピカの1年生教諭が誕生した。

 高校を出てから何事も即断、即決で迷うことなく次のステージへと突き進んできたが、教員という新たな挑戦をスタートさせたのは40歳。まさに不惑の門出であった。(後編へ続く)(河野 正 / Tadashi Kawano)