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連載「斎藤佑樹、野球の旅〜ハンカチ王子の告白」第3回

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 群馬県の生品中学校に入学した斎藤佑樹は、軟式野球部に入った。必死で勧誘して集めた10人の同級生とともに、ごく普通の公立中学の軟式野球部で奮闘。その結果、考える野球を身につけることになる。



中学時代の斎藤佑樹

キャプテンの役割

 兄(聡仁さん)が3つ上で、中学を卒業する入れ替わりで僕が入学したんですけど、最初は「聡仁の弟が入ってきた」という目で見られました。兄は中学卒業後、群馬で名門の桐生高校で野球を続けるレベルでしたから、弟はどんな感じだろうって関心を持たれていたんだと思います。

 実際、中学に入ってすぐ春の大会があって、僕は1年生で試合に出してもらっていました。最初はサードで6番だったかな。1年生の時はピッチャーはやらせてもらっていません。だからあの頃は、ほとんどがバッターとしての記憶ですね。変化球をセンター前へ打ててうれしかった時のこととか、打つことが楽しい時代でした。

 2年生になってショートで5番を打つようになって、同時にピッチャーとしても時々なら投げさせてもらえるようになります。エースは3年生でしたけど、あの時の先輩たちにはそれほど野球に対する熱を感じませんでした。

 野球をやってても、明確な目標はなく、なんとなく強くなれればいいなという雰囲気でした。だから自分が3年生になったらこうしたい、こういう練習をしたいというイメージはいくつも持っていました。僕はとにかく実戦が好きで、練習も試合形式で実戦を想定したピッチング練習をしたいなと思っていました。

 実際、3年生になってからはエースナンバーをつけて、キャプテンになりました。小学校の時もキャプテンでしたし、その流れでなったという感じです。小学生の時は「行くぞーっ」とか言ってみんなを引っ張ろうとするんだけど、自分だけが突っ走っちゃうキャプテンでした。もともと僕、突っ走る系なので(笑)。

 でも中学で僕がキャプテンになって最初に考えたことは、まず自分が必死で練習しようということでした。部活動の時間が終わってからも自分だけ残って、ティーバッティングやピッチングの自主練をするんです。そうすると、いつしかほかの仲間も残って練習をするようになる。「キャプテンがやってるんだから、オレもやらなきゃ」って、何人も残って練習するようになりました。

 キャプテンって、チームが向かうべきベクトルを同じ方向に持っていくのが役割だと思うんです。見た目にわかりやすいリーダーシップを発揮するとか、そういうことよりも、裏でいつの間にか一人ひとり、少しずつ違っていた向きを、なんとなく同じ方向へ持っていける......そういう能力がある人がやるべきだと思います。当時、自分が実際にできていたかはわかりませんが。

好きな練習しかしてこなかった

 2年の夏が終わって新チームになったと同時に、僕が練習メニューを考えるようになりました。当時の監督は野球に詳しくない先生で、練習にもほとんど顔を出さなかったので、僕が紅白戦をメインにティーバッティングと、たまにシートノックするくらいのメニューを組んでいました。

 当時、"15アウト"という練習メニューがあって、それを僕らはよくやっていました。スリーアウト×5回で15のアウトをとるまで、攻守交代しないで続ける。僕がピッチャーとして投げ続けて、スリーアウトになったらその時点で出ていたランナーをリセットして、またスリーアウトになるまで続ける......15のアウトを取ったら、攻守交代して、また15のアウトをとるまで続ける。部員は同級生が11人、1年生が7〜8人だったかな。何とか2チーム分を確保できるくらいの数でした。

 試合でもサインは僕が出しました。あとトリックプレーの練習もしましたね。兄のいた桐生高校の試合を応援しに行った時に繰り出されたプレーを見て、「おっ、これ、いいな」って(笑)。

 ノーアウトかワンアウト二、三塁で、バッターがスクイズして、それを攻撃側がわざとミスするんです。空振りして、二塁ランナーが飛び出して、さらにコケてみせる。そうしたら肩に自信のあるキャッチャーは必ずセカンドへ投げるじゃないですか。その間に三塁ランナーがホームを突く、みたいな......そのプレーは試合でもやってうまくいきました。いやぁ、気持ちよかったですねぇ(笑)。

 思えば中学時代の僕は、好きな練習しかしてこなかった。それがよかったのかなと思っています。本能のままにボールを投げてきたからこそ、ピッチャーとしての自分は成長できたと感じています。ナックル、シンカー、カットボール......変化球にもひと通り挑戦しましたけど、あれ、もし指導者がいたら止められていたでしょうね。まずはストレートとカーブを磨け、とか言われちゃって(苦笑)。

 3年生の春、監督が代わって野球経験のある先生がいらっしゃったので、そこからはサインを出すのは監督の仕事に戻ったんですけど、あの時の経験というのは、その後の野球人生において大きかったと思います。野球を考えることの大切さを知りましたし、考えれば野球は変わるし、考えることで強いチームも倒せる。それは僕の野球の原点だったかもしれません。

 3年の春からはピッチャーに専念できました。僕は遠投を大事にしていました。好きだったし得意だったし、中学生ながら100メートルは投げていたと思います。生品中は校庭が広くて、その校庭の端から端まで投げたいという目標に向かってひたすら遠投を繰り返していました。

中学時代、唯一記憶にある敗戦

 中学時代、印象に残っているのは勝った試合ばかりです。僕、都合よく負けた試合のことは覚えていません。1、2年の時は優勝したわけではないのでどこかで負けているはずなんですけど、その負けを覚えてない(笑)。

 そもそも何かがうまくいかない時、失敗しても次があるからって思うんです。子どもの頃からそうでしたね。ひとつの失敗を重くとらえないというか......それは失敗を軽く考えているということではありません。全力でバーンとぶつかって、それが失敗だったとしても、次へ切り替えるために何か新しいものを自分のなかにつくろうと思ってきました。だから負けた悔しさは残らない。それがその後の僕を支える武器になってきたと思っています。

 ただ中学の時、ひとつだけ覚えている負けがあります。あれは3年の春の大会でした。雨のなかの試合で、初戦敗退したんです。こんなに雨が降っていて、どうやって投げればいいんだよ、なぜ中止にならないんだってイライラしながら投げていました。軟球って濡れるとめちゃくちゃ滑るんです。ところが相手のピッチャーは、球は速くなかったけどストライクが入る。ウチの打線はうまく打たされて、凡打の山です。

 その経験を生かすことができたのが3年の夏の大会でした。群馬県から2校の枠があった関東大会に僕らは準優勝して出場したんですけど、その初戦、船橋中との試合が雨だったんです。春の経験から、とにかくストライクを投げれば勝てると信じていたので、「ストライクを入れにいくだけでいい、そうすれば打ちとれる」と考えて投げていました......でも今、記録を見たら8つもフォアボールを出しているんですね(苦笑)。おっかしいなぁ、そんな記憶はないんだけどなぁ。

 結果、5回まで0−0、6回に相手のワイルドピッチで先制、その後もフォアボールや内野安打で7回までに5点を取りました。僕が打たれたヒットは......記録によると1本だけだったみたいです。生品中が5点も取ることってなかったから、あの試合は珍しい勝ち方(5-1)でしたね。

 最近、中学時代のピッチングフォームを動画で見る機会があったんですよ。きれいなフォームだなと思いつつ、ちょっと粗削りな感じもありましたね。力の入れ方、抜くべきところを抜く感じが上手だなと思う反面、リリースポイントの瞬間に力が入ってると思いました。力が入ると上下運動が激しくなるので、もっと抑えたフォームのほうが柔らかさを出せる。それをもっとうまく、シンプルに出せばいいのにって......いや、中学生にそこまで求めるのも酷な話なんですけどね。中学生の斎藤佑樹くんには「そのままいって下さい」とだけアドバイスしようと思います(笑)。

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 関東大会でベスト8となった斎藤のピッチングをたまたま観て、興味を抱いた人物がいた。早稲田実業の和泉実監督だ。この出会いがなければあの夏はなかった。次回はハンカチ王子、誕生前夜を描く──。

(第4回へ続く)