マンチェスター・ユナイテッドのクリスティアーノ・ロナウドが、12日のトッテナム戦でハットトリックの活躍(3-2)から、生…
マンチェスター・ユナイテッドのクリスティアーノ・ロナウドが、12日のトッテナム戦でハットトリックの活躍(3-2)から、生涯通算得点を807に伸ばし、それまで1位だったオーストリアのヨーゼフ・ビガンの805ゴールを抜いて記録を更新した。といっても、ビガンが活躍したのは1930年代のこと。W杯も1934年にイタリアで開催された第2回大会に出てベスト4に進出しているが、当時の映像はないため実際のプレーを見たサッカー関係者は誰も生きていないだろう。
この第2回大会では、ビガン以上に注目を集めたチームメイトがマティアス・シンドラーだった。当時「オーストリア史上最高の選手」と言われ、優雅さと力強さを兼ね備えたセンターフォワードだった。ユダヤ人でもあるシンドラーは、38年に母国がナチス・ドイツに併合されたあと、チームメイトの裏切りにあい、35歳でガス自殺した。
シンドラー以外にも伝説となっている選手としては、イタリアのジュゼッペ・メアッツァ、ライムンド・オルシ、ブラジルのレオニダスの名前をあげることができる。メアッツァは34年と38年のW杯でイタリア連覇の立役者となり、「早熟の天才」と言われた選手。生粋のミラノっ子で、その名はサン・シーロ・スタジアムに冠されている。オルシはアルゼンチン生まれのドリブラーで、イタリアが自国のW杯で優勝するために獲得した選手だった。そしてレオニダスはオーバーヘッドキックの名手で“黒いダイヤモンド"のニックネームを持ち、38年の第3回フランスW杯の得点王になった。
話を通算得点に戻すと、初めて1000ゴールを達成したのは“キング"ペレで、次が“モザンビークの黒豹"と言われたポルトガルのエウゼビオと言われてきた。確かに映像でペレがPKから1000ゴールを達成した瞬間を見た記憶がある。リオのマラカナン・スタジアムでのバスコ・ダ・ガマ戦で、ゴールが決まった瞬間、スタンドから観客が流れ込んできて、ペレを肩車するファンもいれば、ユニホームを奪いとろうとするファンもいた。
しかし現在ではペレの生涯1281ゴールにはサントスとブラジル代表以外にも、サンパウロ州選抜や軍選抜、チャリティーマッチといった非公式の試合での得点もカウントされているため、現在では767ゴール(831試合)に修正されていて、4位にランキングされている。
そこで気になる3位はというと、ペレと同じブラジル代表で、PSVアイントホーフェンやバルセロナで活躍したロマーリオの772ゴール(994試合)である。晩年になっても天才的な嗅覚は衰えることなくゴールを量産して偉大なペレの記録を抜いた。
5位はリオネル・メッシの759ゴールで、まだまだ現役を続行するためペレやロマーリオの記録を抜く可能性が高い。6位は「マジック・マジャール」と呼ばれて一時は無敵を誇ったハンガリーの名手フェレンツ・プシュカシュの746ゴール(754試合)。54年のスイスW杯は優勝候補の本命だったが、決勝で西ドイツに2-0から3失点で逆転負けを喫した。レアル・マドリーの黄金時代を築いたストライカーでもある。
7位は“爆撃機"の異名をとった西ドイツのゲルト・ミュラーの735ゴール(793試合)だ。背が低く、ずんぐりむっくりした体型だが、ペナルティーエリア内での優れた嗅覚とワンタッチ・シュートでゴールを量産した。8位はすでに紹介済みのエウゼビオで、639試合で623ゴールという得点率を誇っていた。1970年に来日して日本代表と対戦したが、国立競技場での練習を見学した釜本邦茂氏は、エウゼビオの強烈なシュートに度肝を抜かれていた。
9位はポーランドとバイエルン・ミュンヘンでゴールを量産しているロベルト・レヴァンドフスキの603ゴールで、昨シーズンのブンデスリーガでは1シーズンで41ゴールという最高得点記録も持っている(それまでの1位はゲルト・ミュラーの40ゴール)。
そして10位はハンガリー人ストライカーのダーク・フェレンツの576ゴールとなっている。フェレンツは、ハンガリーリーグの得点王に3度、欧州の年間最多得点を3度(いずれも1946、47、49年)獲得しているストライカーだが、活躍したのが1940年代だったため、第二次世界大戦によりW杯は中止になってしまったので出場できていない。このため知名度が低く、後に活躍するプシュカシュやコチシュの台頭と黄金時代の到来により、歴史に埋もれてしまった悲運のストライカーだった。