サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト・大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マ…
サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト・大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回は「20世紀名物」について。
■自殺者も出たW杯予選
第二次世界大戦が終わって四半世紀もたった1969年には、「サッカー戦争」と呼ばれるものが勃発している。中米で隣り合うエルサルバドルとホンジュラスが、ワールドカップ予選を契機に戦争に突入したという話である。
1969年、1970年ワールドカップの出場をかけた北中米カリブ海地区の第2次予選で両国が対戦した。初戦は6月8日にホンジュラスの首都テグシガルパで行われ、ホンジュラスが1-0で勝った。試合の前夜にエルサルバドル代表が宿泊するホテルの周辺を群集が取り巻き、爆竹やクラクションを鳴らし、ホテルに投石をしてエルサルバドルの選手たちを眠らせなかった。この敗戦にショックを受け、エルサルバドルでは18歳の女性が拳銃自殺を遂げ、その葬儀にはエルサルバドルの大統領だけでなくホンジュラスから帰国したばかりの代表選手もかけつけた。
第2戦は6月15日、エルサルバドルの首都サンサルバドル。今度はエルサルバドルの群集がホンジュラスのホテルを取り巻き、自殺した女性の肖像を掲げ、ホテルの窓ガラスを破壊して腐った卵やネズミの死骸などを投げ入れた。ホンジュラス代表はエルサルバドル軍の装甲車で守られてスタジアムまで往復したが、ホンジュラスから応援にきたサポーターたちが暴行を受けて2人が死亡するという騒ぎのなか、試合は地元エルサルバドルが3-0で勝った。
■両国間の緊張を高めたプレーオフ
当時は「アウェーゴールルール」などない。プレーオフは6月27日にメキシコシティのアステカスタジアムで行われた。10万人収容の巨大スタジアムだが、2万人に制限し、観客席を完全に分離、緩衝地帯には催涙ガス銃を手にした警察官が配備された。エルサルバドルが先制、ホンジュラスがすぐに追いついたがエルサルバドルが再び1点をリードして後半へ。その開始早々にホンジュラスが同点とし、試合は延長へ。決着がついたのは延長後半6分。後にエルサルバドル代表監督となって1982年ワールドカップに出場を果たすマウリシオ(ピポ)・ロドリゲスの左足シュートがホンジュラスGKの股下を抜いて3-2でエルサルバドルが勝利を収めた。
この試合後、両国間の緊張は高まり、17日後の7月14日、エルサルバドル空軍の攻撃機がホンジュラスの首都テグシガルパの国際空港を爆撃。翌日にはホンジュラス空軍の攻撃機がエルサルバドルの首都サンサルバドルの国際空港を爆撃、ついに「熱い戦争」が始まったのである。
戦争は「米州機構(OAS)」の仲裁で7月18日には終結、「100時間戦争」とも呼ばれるが、「サッカー戦争」の名がひとり歩きし、「サッカーに熱くなり過ぎて、戦争にまで突入した例がある」などと引き合いに出されることが多い。
しかし話はそう単純ではない。そもそも両国は歴史的に深い関係にある。ともにスペイン語を話し、民族的にもほとんど同じ。両国とも、上から水色、白、水色に塗り分けられた国旗を使用している。この2か国とグアテマラ、ニカラグア、コスタリカの計5か国は、1823年の独立時から数年間、「中央アメリカ連邦共和国」という1つの国家を形成していたのである。コスタリカ以外の4か国が「水色-白-水色」の国旗を使っているのはその名残だ。
■両国の国民が感情を悪化させた背景
さて、20世紀半ば、エルサルバドルとホンジュラスは対照的な国だった。エルサルバドルは国土が小さく、人口が多い(四国の約半分の国土に、1969年当時は358万人)。一方のホンジュラスは、国土はエルサルバドルの6倍(本州の約半分)もあるのに人口はわずか263万人。エルサルバドルではコーヒーの生産を主産業とする国の方針もあって、自給自足の農業生活ができなくなり、合法非合法にホンジュラスに移住して農業を営む人は後を絶たず、このころには30~50万人にものぼっていた。
しかし1969年、ホンジュラス政府はエルサルバドルからの移民に国内の労働力を頼る方針を一転、土地所有をホンジュラス国内で生まれたものに限るという法律を制定し、それに該当しないエルサルバドル移民に対し、30日以内に国外退去を求めた。エルサルバドルにはホンジュラスから追い出された人びとが次々と帰国、両国間の国民感情を悪化させていた。
エルサルバドルとホンジュラスの国境の大きな部分がスンプルという名の川。しかし雨季と乾季で流れが大きく変わることから、国境戦が不明確な場所があった。国境戦をめぐって、それまでにもたびたび武力衝突があり、死者も出ていた。