サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト・大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マ…

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト・大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回は「20世紀名物」について。

■日本のサッカーに影響を与えた第一次世界大戦

 第一次世界大戦は、日本のサッカーにも少なからぬ影響を与えた。この当時、日本は1902年に締結された「日英同盟」に従って連合国側に立っていた。そしてドイツに宣戦布告をし、1914年の10月から11月にかけてドイツの租借地になっていた中国の青島を攻撃、ほとんど無抵抗のまま占領した。そして4700人ものドイツ兵を捕虜にした日本は、第一次世界大戦終了の翌年、1919年まで、彼らを国内数カ所の捕虜収容所で暮らさせた。そのひとつが、広島湾に浮かぶ似島という島だった。

 広島は日本で最初にサッカーをプレーし始めた地域のひとつで、明治23(1890)年には江田島の海軍兵学校でサッカーがプレーされ、明治35(1902)年にできた広島高等師範学校にはサッカー部がつくられた。そして明治44(1911)年には県立広島中学(後の広島一高、現在の国泰寺高校)の弘瀬時治校長が母校の東京高等師範学校からサッカー指導者として松本寛次を呼び、広島のサッカーはますます盛んになった。

 青島で捕虜になり、似島に送られたドイツ兵捕虜たちは朝夕の点呼以外は収容所内で自由を与えられ、さまざまな文化活動やスポーツ活動を行った。サッカーチームもつくられた。そして戦争が終結して間もなく、ドイツ兵が帰国する前に、広島高等師範のグラウンドで広島の学生選抜チームがドイツ兵チームと試合を行った。結果は、0-5、0-6で、捕虜チームの完勝だった。

 「強烈な衝撃を受けた広島の学生たちは、毎週のように小船に乗って似島に渡り、ドイツ兵たちに指導を請い、最新のテクニック、戦術を習得。彼らの素直な姿勢と努力の結果、ただやみくもにラッシュを繰り返すだけの広島式サッカーは最新のドイツ式サッカーへと変貌を遂げたのであった」と、サンフレッチェ広島の公式サイト内の記事「広島サッカーの歴史」は伝えている。

■キエフでの「死の試合」

 第二次世界大戦中のサッカーにまつわるエピソードとしては、ナチス・ドイツに占領された旧ソ連(現在ウクライナ)のキエフで行われた地元チームとドイツ軍チームの「死の試合」の話がある。強豪クラブとして知られていたディナモ・キエフの選手たちはパン工場の仕事に従事していたが、1942年にそこで「FCスタート」というチームをつくり、連戦連勝の強さを見せた。

 そこでドイツ占領軍のPGSというチームが対戦を申し込んだ。FCスタートは6-0で勝った。PGSの選手たちはFCスタートの選手たちのプレーをほめ、試合後には仲良く記念撮影さえした。しかしドイツ占領軍の上層部は喜ばず、再試合を求めた。そしてFCスタートの選手たちに負けるよう強要した。

■プロパガンダに利用されたサッカー

 しかしFCスタートはこの試合も勝利をつかむ。審判は一方的で、勝つことを要求されたドイツの選手たちのラフプレーはすべて見逃されたが、FCスタートの選手たちは、勝つことで自分たちにどんな運命が待っているかを覚悟しつつも力の限りに戦い、5-3で勝利をつかんだのだ。

 試合後、FCスタートの選手たちはゲシュタポに連行され、収容所に入れられて多くの選手が処刑された…。長くそう信じられていた。そしてウクライナの人びとの間でも「死の試合」として言い伝えられてきた。

 しかし今世紀になって、選手たちの多くが処刑されたというのは旧ソ連が創作した「プロパガンダ」だったという研究成果が発表され、話題になった。間違いなく、2つの試合は実施された。しかし2試合目の後に選手たちが逮捕され、処刑されたというのは、事実ではなかったらしい。ソ連当局が、ナチスの死の脅しに屈せず、堂々と戦って勝利をつかんだ英雄という「虚像」を作りだしたのだという。

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