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連載『なんで私がプロ野球選手に⁉』
第7回 攝津正・後編

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 異色の経歴を辿った野球人にスポットを当てるシリーズ『なんで、私がプロ野球選手に!?』。第7回後編は、のちに沢村賞投手に上り詰める攝津正(元ソフトバンク)の社会人チーム生活8年目からスタートする。



2012年に17勝をマークし、沢村賞に輝いた攝津正

 そのスカウトは、毎回のようにJR東日本東北の試合に現れた。いつしか攝津正は、スカウトと挨拶を交わすようになっていた。

「あ、作山さん、こんにちは」

「おう、エース、元気か?」

 スカウトと選手の間で技術指導や交渉事を交わすことは禁じられているため、ごく短いあいさつしかできない。それでも、攝津はソフトバンクの東北・北海道地区担当スカウトの作山和英(現・アマスカウトチーフ補佐)を「いつもいるな」と認識していた。

 作山からすれば、攝津のことは高校2年時から追い続けている選手だった。なかばNPBスカウト陣から無視されたかのようだった攝津だが、作山は意外な言葉を口にした。

「全球団、全スカウトが攝津というピッチャーの存在を知っていたはずです。何度も都市対抗に出ている大黒柱ですし、東北担当なら一度は上司に見せているはず。私も攝津のことはずっと(指名候補の)リストに載せていましたから」

なぜ8年間指名がなかったのか

 それでは、なぜ攝津はドラフト会議で指名されずにいたのか。作山はこんな見方をしている。

「攝津は今日も投げて、明日も投げる......と大車輪で投げていたので、次の登板を見据えて平均球速を落として投げていました。それが上司には『球速が物足りない』と映ってしまうんです」

 いくら作山が評価しようが、指名の権限がある上司が認めてくれなければ獲得はできない。攝津が大活躍した2007年も作山はリストに名前を入れたが、球団が攝津をドラフト指名することはなかった。

 作山にとって2008年は、攝津を初めて見た日から10年目のシーズンだった。他球団のスカウトのなかには、「いつまでリストに残しているの?」という目で作山を見る者もいた。だが、作山のなかで「攝津ほど完成度の高いピッチャーはいない」という評価が揺らぐ日はなかった。

「勝負どころに強く、ピッチャーとして必要なものを持っている。何度もいいところを見ているし、プロで挑戦させてやりたいと思っていました」

転機はホークス12年ぶりの最下位

 そして、ついに攝津に神風が吹く。王貞治監督の最終年となった2008年、ソフトバンクはチーム防御率4.42と投手陣が崩壊し12年ぶりの最下位に転落した。現場からは「即戦力リリーフがほしい」という要望が伝えられた。

 作山はここぞとばかりに「攝津がいますよ」と猛プッシュする。

「話は早かったですよ。上司にはとっくに見てもらえていましたし、『たしかに攝津は即戦力だね』と認めてもらえていたので」

 懸案の球速についても、作山は自信たっぷりに「大丈夫です」と上司に報告している。前年秋に攝津が大活躍したワールドカップで、耳寄りな情報を得ていたからだ。

「関係者から『140キロ後半が出ていたよ』と聞いたんです。短いイニングならスピードは出るんじゃないかと予測していたので、『やっぱりな』と思いました」

 だが、確実に攝津が獲得できる保障はなかった。ほかにも脂の乗った攝津を狙う球団があったからだ。作山はとくに楽天と日本ハムを警戒していた。

「楽天の当時の担当は上岡(良一)さんで、私の大学時代の先輩でした。上岡さんは攝津を高く買っていたので、獲得するには楽天がポイントになるだろうと。でも、上岡さんが上司を連れてきた試合で、たまたま攝津が打たれてしまった。これで楽天の線はなくなったと思いました」

 日本ハムのスカウト陣が視察した日も、攝津の状態は悪かったという。最終的に攝津に調査書の提出を求めたのはソフトバンク、日本ハム、横浜(現・DeNA)の3球団。攝津は「どうせ別にかからないだろう」と思いながら、調査書に記入したという。

 2008年10月30日、ドラフト会議は東京・品川プリンスホテルで開かれた。攝津はいつものように、グラウンドで練習していた。

 練習を終え、寮の部屋に戻るとチームメイトから「かかったよ」と言われた。攝津は思いがけない言葉に絶句した。ソフトバンクが攝津を5位で指名したのだ。

 驚き、戸惑い、喜び。さまざまな感情が渦巻いたが、もっとも攝津の内面を占めたのは「ここで?」という思いだった。

「2007年以前からずっと数字は残していましたし、変えたことは何もありません。自分には違いがわからないので、『ここでか!』という思いは強かったです」

次々とタイトルを獲得

 すでに26歳になっており、プロ1年目には27歳を迎える。JRという大企業で安定した生活を手にしており、プロへの扉が開かれたといっても「どうしよう?」という迷いもあった。悩んだ末に、攝津はソフトバンクと契約を交わす。

 入団前のメディカルチェックで攝津は意外な事実を知らされる。関係者から「この肩、大丈夫?」と言われるほど、肩のコンディションが悪かったのだ。JR東日本東北のエースとして投げ続けた代償は大きかった。

 とはいえ、手術が必要なほど深刻な状態ではなく、攝津は新人合同自主トレ期間中に肩のケアとトレーニングに取り組んだ。その成果もあり、春季キャンプは万全の状態で臨めたという。そして、攝津は自身のボールに目を見張った。明らかに社会人時代よりもボールが走っていたのだ。

「社会人でも全力で投げていたつもりでしたけど、コンディション的にベストではなかったのでしょうね。プロで正しい知識を教わって、少しでもよくなるよう取り組んだら球が速くなっていました」

 作山が見込んだとおり、常時140キロ台後半の球速が出るようになっていた。攝津は見事に1年目からセットアッパーに定着。ブライアン・ファルケンボーグ、馬原孝浩との勝ちパターンの投手リレーは「SBM」と呼ばれた。

 1年目は34ホールド、2年目は38ホールドを挙げて2年連続で最優秀中継ぎ投手を受賞。3年目からは先発に転向し、5年連続で2ケタ勝利。17勝を挙げた2012年は最多勝利と最高勝率に加えて沢村賞を受賞した。プロ6年目のオフには年俸が球界最速の4億円に到達。社会人時代に「引退する頃かな」と考えていた、32歳で手にした大金だった。

「プロに入ってから毎月25日の給料日がうれしくて、銀行で記帳するのが楽しかったですね。金額を見るたびに『すげぇ!』って。社会人では最初は手取り10万円くらいでしたから。でも、だんだん喜びがそこじゃなくなっていくんです。もっとうまくなりたい、技術を極めたい......という方向に没頭する。入ってくるお金も自分の体のためにどんどん使っていました」

大金を手にしても国産の庶民車

 2018年には現役を引退。10年間のプロ生活だったが、通算282登板で79勝49敗、73ホールド、防御率2.98。最優秀中継ぎ投手と沢村賞を受賞した投手など、攝津のほかにはいない。記録にも記憶にも残る投手になった。

 スカウトの作山は「攝津には感謝しかない」と語った。

「あそこまで活躍するとは予想できませんでしたが、間違いなく仕事はしてくれると思っていました。沢村賞を獲ってくれる担当選手なんて、そうそう巡り会えません。もし他球団で活躍していたら、『もっと推せばよかった』と後悔したはずです」

 2019年の正月に攝津から作山に年賀状が届いた。そこには「プロに入れていただいて、幸せな野球人生を送れました。ありがとうございました」というメッセージが添えられていた。作山は攝津の温かみのある人柄に胸を打たれた。

「プロで稼いで人が変わってしまう例も見てきましたが、攝津はいくら稼いでも変わらない。そんな選手と出会えて、僕は幸せでした」

 JR東日本東北時代の恩人たちも一様に攝津の想像を超える成功に驚き、そして変わらない人柄を誇りに感じている。元監督の阿部圭二は、かつての教え子についてうれしそうに語った。

「東北人特有のポツリ、ポツリと話す感じは昔のままですよ。外車に乗るプロ野球選手も多いなか、攝津は国産の庶民的な車で。そこが彼のいいところなんでしょうね」

 同僚だった福家大は現在、JR東日本東北で投手コーチを務めている。同じ釜の飯を食べた者として、攝津が誇らしくて仕方がないという。

「今でも『攝津と一緒にやっていたの?』と聞かれますし、あいつと同じチームでプレーできたことは一生の自慢です」

白血病との闘い

 プロでの現役生活を終えた攝津だったが、今は新たな戦いに臨んでいる。それは白血病との闘病である。

 2021年1月に「慢性骨髄性白血病」と診断され、一度は死を覚悟した。だが、「今のところ薬を飲んでいれば問題ない」と医療の進歩を実感しているという。そして、自身の闘病をきっかけに骨髄バンクへのドナー登録を呼びかける活動を始めている。

「自分が発信することで、少しでも多くの人に病気のことを知ってもらいたいんです。幸い自分の症状は軽いですが、困っている人もたくさんいます。ぜひ興味を持ってもらって、ドナー登録にご協力いただきたいですね」

 白血病という困難を目の前にしても、攝津に動揺した様子が見えないのは社会人野球での経験も生きているのだろうか。そう尋ねると、攝津はこう答えた。

「8年も耐えていますからね。苦しい状況を何度もくぐり抜けてきましたし、今は楽しんで過ごせれば病気は悪くならないと思っています」

 最後に攝津に聞いてみた。年齢的にドラフト指名されてはいないが、プロで通用する実力を持った「社会人のエース」はほかにもいるのだろうかと。

 攝津はにっこりと笑って即答した。

「たくさんいますよ! 僕らの頃なら磯村さん(秀人/元・東芝)なんかサイドから155キロくらいのとんでもないボールを投げていましたからね。社会人野球のトップレベルのピッチャーには、プロで十分通用する実力があると思います」

 その言葉には、アマチュア最高峰の世界で8年間を戦った矜持が滲んでいた。

(おわり)