) ひとり、薄暗い舞台の中央に立ち、遠くの一点を真っ直ぐに見つめる。強い意志に満ち溢れたその眼光に、観客は心を奪われる。次の瞬間、彼女は覚悟を決めたかのように剣を天に向かって突き上げた。「我こそは、魔界の扉を開く者!」――。 ロックバンドの…

 ひとり、薄暗い舞台の中央に立ち、遠くの一点を真っ直ぐに見つめる。強い意志に満ち溢れたその眼光に、観客は心を奪われる。次の瞬間、彼女は覚悟を決めたかのように剣を天に向かって突き上げた。「我こそは、魔界の扉を開く者!」――。

 ロックバンドの生演奏が始まり、次々と敵が彼女に襲い掛かる。現役のプロレスラーたちによるアクションシーンは、この舞台『魔界』の目玉だ。その中心にいる彼女の名前は、志田光。アメリカの新団体「AEW」で活躍するプロレスラーだ。



MAKAIとAEWの2団体で活躍する志田

「魔界って、私の夢の形のひとつなんです。プロレスがあって、お芝居があって、歌がある。だれが役者さんでだれがレスラーかわからないくらいボーダーレスに繋がっていて、『志田光はこうありたい』という夢の形なんですよ」

 魔界は「演劇」「音楽」「プロレス」を組み合わせたハイブリッドエンターテイメントショー。陰陽道をモチーフに、非業の死を遂げた戦国時代と四国、中国の武将たちを、プロレスラーや役者が演じる。

 公演前日、鶴姫役の志田光にインタビューを行なった。コロナ禍で来日することが難しく、志田が魔界に出演するのは2年ぶりだ。

「鶴姫という役をもう5年以上続けているので、役がだんだんと自分にリンクしてくるんですよね。もともと品のあるキャラクターだったのが、私が演じることでどんどん負けず嫌いになってきたり、私自身も鶴姫の芯の強さとか、何度も悲惨な目に遭っているのに諦めないところとかに影響を受けている。どんどん、役とひとつになっていっている感覚です」

 印象に残っている台詞があるという。「大三島の光は決して消えぬ。私がいる限り!」――。

「鶴姫はさんざん苦しめられてきたけど、どんなに魔界に暗闇が迫っていても、私がいる限り魔界を照らし続けるっていう。自分という存在の肯定でもあり、自分が前に立つ覚悟でもあるんですよね。私もそういうふうに強く闘っていきたいなと今でも思います」

 まさに、志田光の生き様そのものを表しているかのような台詞だと思った。

優等生だった自分を解放し、女優の道へ

 志田は1988年、神奈川県高座郡寒川町に生まれた。父、母、5つ上の兄、3つ上の兄、ひとつ下の妹の6人家族。柔道の国体選手だった父の影響で、家族全員が柔道を始め、志田も3歳から柔道漬けの日々を送った。週3日は道場の練習があり、それとは別に家族で柔道場を借りて練習もした。

「夏休みはお父さんに筋トレメニューまで組まれていたし、『将来はスポーツ選手になるんだろうな』と思ってたんですけど、女優になりたいという夢もありました。子供の頃から承認欲求が強くて、柔道であれ、女優であれ、とにかく有名になりたかった」

 柔道以外で、両親になにかを「やれ」と言われたことはない。しかし志田は根っからの優等生で、両親を困らせるようなことは一切しなかった。優秀な兄を見て育ち、勉強も自ら進んでやった。中学は柔道部がなかったため、剣道部に入部。クラスでは学級委員、部活では部長を務めた。

 中学3年生の時、剣道に力を入れる公立高校からスカウトされた。やるなら高校3年間、とことん剣道に打ち込もうと決意。「大学進学前に1年浪人しよう」と決め、勉強は捨てて3年間、剣道しかしなかった。なによりも部活優先で、文化祭も体育祭も出ずに大会に出場。「青春した記憶がないですね」と笑う。

 高校卒業後、浪人生活を送るなか、大学でやりたいことが見つからなかった。大学に行く意味はあるのだろうか? 本当にやりたいことってなんだろう? そうだ、女優になりたい! しかし、親の気持ちを考えたら踏み出せなかった。

 そんなある日、映画『バッテリー』を観る。主題歌『春の風』の歌詞に感動し、心を動かされた。人生は一度しかない。大学に行かないで就職もできなかったとして、死ぬかと言ったら、いや、生きてはいける。だったらやりたいことをやらないとダメだよなと、志田は思った。

「その時、『ワガママに生きる』と決めたんです。それまで優等生だった自分を解放して、好きなように生きようと思いました。今でも悩むと、『ワガママに生きるって決めたから!』と、要所要所で自分に言い聞かせてます」

 勉強はやめ、スカウトを狙って原宿や渋谷の街を歩いた。芸能事務所にスカウトされ、タレント活動をスタート。しかし両親には言い出せず、センター試験の日にわざと仕事を入れた。

 センター試験当日、両親に「受けるのやめようかな」と言うと、「だと思った」と言われた。思えばいつだって、両親は志田を自由にさせてくれていた。勉強しろとも、テストの点を見せろとも言われたことがない。志田を縛っていたのは自分自身だったのだと気づいた。

「プロレスってこんなにキラキラするんだ!」

 2008年4月、テレビ埼玉『筋肉美女-Muscle Venus-』の連動企画として、映画『スリーカウント』の企画が立ち上がる。志田がオーディション会場に行くと、アイスリボンの佐藤肇社長に「プロレスラーとして練習して、デビューできたら映画に出られます」と言われた。驚いたが、演技経験はないがスポーツはできる「自分向き」の企画だなと思った。

 オーディションでは500人いた女優の卵たちが、どんどんやめていく。実際に練習に来たのは100人。次の練習では50人、次は30人、次は10人......。「私も『なんでプロレスしてんだろう?』って思いました」と志田は言う。最終的に残ったのは8人。現在もプロレスラーとして活躍する、藤本つかさ、松本都もそこにいた。


「演劇」

「音楽」「プロレス」を組み合わせた舞台『魔界』での志田 photo by 魔界

 8月23日、新木場1stRINGにて、対星ハム子戦でデビュー。映画では見事、主役の座を獲得した。しかし、プロレスは1年でやめると決めていた。「1年は続けなければいけないが、その後は自由にしていい」という契約だったからだ。

「プロレスに対して真剣じゃなかったし、今思うとその1年は後悔しかない。もっと真剣にやっていたら、全然違っていたと思います。アイスリボンの先輩方に『あいつ、やる気ねーな』と思われるのは当然だし、ファンの方にも『二足の草鞋でプロレスを甘く見ている』と叩かれたけど、それも当然のことです」

 コーチはさくらえみ。さくらは志田の才能に惚れ込んでいた。志田が「プロレスをやめたい」と言うと、さくらに倉庫のような部屋に連れて行かれた。「志田さん。一回、本気でプロレスだけやってみない? 短い期間でもいい。半年でもいいから、私に志田さんの半年をちょうだい。絶対、スターにするから」――。

「でも私は『無理です、無理です、プロレスもう無理です』って言いました。当時はさくらさんのことを、めちゃくちゃうるさいオバさんだなと思ってたんですけど(笑)、私が女優をやりたいのも知っていたので、『プロレス界で一番にならないと、その枠は回ってこないんだよ』とずっと言われていて。それは今でもそうだなと思います。その言葉でやってきた、みたいなところもあります」

 翌年6月、映画が公開された。8月の後楽園ホール大会を最後に、プロレスをやめることは決まっていた。しかし映画館で自分が主演した映画を観て、感動した。

「プロレスしている私、めっちゃ輝いてたんですよ。そこで初めてプロレスの魅力に気づいたというか。『プロレスってこんなにキラキラするんだ!』と思って、アイスリボンに頭を下げて、『すみません、続けさせてください』って言いました。そこからはもう、なんでもやるって決めましたね。言われたらなんでもやるし、アイスリボンに尽くそうと思いました」

プロレスだけが全然向いてない

 本当に、なんでもやった。映画の第二弾ではコーチを務め、アイスリボンのプロレスサークルも担当。JEWELSから総合格闘技の試合オファーが来た時も、経験はなかったが迷わず受けた。1か月間、猛特訓したが、浜崎朱加に1R38秒で一本負けした。

 同じマッスルビーナス出身である藤本つかさは驚くべきスピードでプロレスに順応し、松本都もアイスリボングランドスラムまで達成。志田はスポーツ経験があることで周りの期待値は高かったが、なかなか結果を残せない。焦りを感じた。

「子供の頃からずっとエースみたいな立ち位置で、やればなんでも器用にできていた。そういうのがプロレスではまったく感じられなくて。プロレスだけが全然向いてないんだなと思いました」

 筆者が「プロレスは難しいですよね」と言うと、「難しいですけど、難しいことが問題じゃないんです」と言う。

「柔道でも剣道でも、難しいことを練習してできるようにするということは、子供の頃から繰り返してきました。プロレスに関しては本当に、なにが難しいのかもわからない。なにをしたらいいのかもわからない。『わからない』という感覚って、今まで感じたことがなかった。これが正しいのかどうかもわからないまま頑張るのは、苦しかったですね」

 未だにプロレスがどういうものか、どうあるべきものか、わからないという。ただ、自分が目指すべき方向を見つけられたのは、さくらえみがアイスリボンを退団した2012年1月。志田、藤本が2トップでアイスリボンを引っ張っていくことになった。「さくらえみが抜けたらアイスはやっていけるの?」という声が大きい中、志田は「チャンスだ」と思えたという。

「部活の影響もあってか、先輩には『ハイ』しか言っちゃダメっていう感覚があったんです。こうしたいんです、ああしたいんですって、それまであんまり言えなかったんですけど、急にトップになって、自分の意志をちゃんと出していかなきゃと思いました。そこからはもう、遠慮なく!」

(後編:米団体の王者になって感じた日本とアメリカの違い>>)

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@shidahikaru