宇津木瑠美が語る「空白の1年と復帰」(前編) 2011年、なでしこジャパンがW杯で世界一になり、宇津木瑠美はゴールドテー…

宇津木瑠美が語る
「空白の1年と復帰」(前編)

 2011年、なでしこジャパンがW杯で世界一になり、宇津木瑠美はゴールドテープが舞う景色を目の当たりにした。それからも代表というチームを支え続けてきたが宇津木は2019年のW杯以降、突如としてピッチから姿を消した。



サッカーから離れた理由や離れている間について語った宇津木瑠美

 自らサッカーを離れ、周りを遮断し、自分の存在意義をとことん探す1年を過ごしていた。そして2021年9月、古巣である日テレ・東京ヴェルディベレーザへの復帰が発表され、11年ぶりに宇津木は日本のピッチに戻ってきた。どんなときでも凄まじい熱量で"なでしこジャパン"と向き合ってきた彼女をそこまで苦しめていたのは何だったのだろうか。

 2019年の女子W杯フランス大会――。海外での経験値が高い彼女は、いつもチームを鼓舞する存在だった。"なでしこジャパンの継承"という責任が彼女を突き動かしていたと言っていい。練習でも、海外仕様のパスで主力の弱いところを突くこともあったが、彼女なりの仲間への強いメッセージだった。

 そんな彼女がこの大会では、何度も揺らいでいた。ケガで途中から別メニューを強いられたことも要因のひとつではあったが、何よりも急速に彼女の気持ちがチームから離れていく様子が見てとれた。必死に気持ちを奮い立たせて無理にでも前を向いて声を出す。しかし、またも気持ちは折れる......。大会中にすでに宇津木の心は悲鳴を上げているように見えた。

「自分自身があれほどそこに何もない大会というのが、北京オリンピック前に(なでしこジャパンに)入ったばっかりで何もわからない状態でプレーしていたとき以来のことで、悔しいと思う資格もなかった。自分にも落ち度はたくさんあって......弱さが出た。ベンチの選手の重要性は身に染みて理解していたはずなのに、『自分は必要ない』って思ってしまったんです。もうちょっといろんな角度から見られれば新しい何かを見つけられたかもしれないけど、限界でした」

 それは、決して「ケガでピッチに立てないから」などという自分本位なものではない。宇津木は、主力として戦った実感がなかった2011年のW杯優勝を複雑な気持ちで受け止めていた。それでも2015年のW杯カナダ大会では、主力の一員として再びファイナリストにまで上り詰めた。決勝ではアメリカに完敗を喫すも、すべての力を出しきった上での決着に納得もしていた。

襲ってきた虚無感

 その後、澤穂希、宮間あやというカリスマ的存在がピッチを去り、一新したなでしこジャパンにイズムを継承できる選手は宇津木のほかに、阪口夢穂、鮫島彩、そして今もなでしこを率いる熊谷紗希、岩渕真奈と人数はどんどん減っていく。そこで、煙たがられたとしても厳しい姿勢を取ることができる宇津木の存在は大きかった。

 そこで貫いてきた姿勢を、意地やプライドをかき集めても保つことができないほど、彼女が歩んできた"代表"とフランス大会に臨んだ"代表"では、根本的なところで大きな溝があったということだ。

 フランスは、宇津木にとって最初の海外移籍の場であり、自分を1から作り上げた場所。この大会にかける彼女の想いは誰よりも熱かった。ケガ人が続出した不運もあったが、土壇場で選手が入れ替わり、準備不足は否めない状況で挑んだ結果、なでしこジャパンはベスト16に終わる。この大会以降、宇津木がプレーした記録はない。世界中のどのチームを探しても宇津木の名前を見つけることができなくなった。彼女は引き続きアメリカで翌シーズンのオファーを受けながらそれを断っていたのだ。

「代表選手でいる意味、プロ選手でいる意味、日本のサッカーって、なでしこジャパンって何だろう......っていろいろ考えちゃって、このまま答えの見えない状態で、ただそこにプロ選手としていることに自分自身許せるのか----どれだけ考えても答えは見つかりませんでした」

 宇津木は一切のサッカーに関することから身を引いた。そうするしかないほど、なでしこジャパンの存在は彼女の中で大きく、誇りであり、成長させる力の源だったのだ。大きな虚無感が彼女を襲っていた。

 それもそのはず。常に飛び級でカテゴリー代表を兼任し、代表キャップ数は113を数える。16歳で、なでしこジャパンに初招集されてから彼女のキャリアは、なでしこジャパンとともにあった。スタメンとしてだけでなく、ベンチメンバーの在り方から、チームがひとつになる重要性、世界のトップへ駆け上がる様をど真ん中で体感してきたのだ。時代とともに代表が変遷していくのは当たり前のこと。しかし、このときに感じた隔たりは本質的なものだったからこそ、その苦悩は底を知らなかった。

どん底で見えたもの

 2019年の年末にアメリカから帰国したものの、サッカー関係者とは連絡を絶ち、自分が進むべき道を探る日々が始まった。

「10代から常に自分の意思より先にやるべきことがあった。アジアカップ、ワールドカップ、オリンピック予選、オリンピック本番や、国内キャンプやリーグ戦。いつもやるべきことでスケジュールは埋まっていました。でも、そのなかに結果や成果、それに伴う充実感があったので、続けられていたんです。でも、2019年はやらなきゃいけないことよりも、達成感、充実感が上回らなくなってしまって......。そうすると、これまでずっとやってきた自分を今の自分が超えるタイミングがなくなって、意義が見つけられない。どん底でした。

 苦しくてサッカーから離れてみたものの、そんな状況でやるべきことなんて見つけられないんですよね、結局。でも時間はたっぷりある。で、今度は時間があることにも怯えるんです」

 エンドレスな負のループ。ボールも蹴らない、走りさえもしない。気がつけばそんな日々は約1年にも及んだ。

 それでも何か掴めるものがあるかもしれないと、数々の資格を取得したという。

「とりあえず興味のあるものをいろいろやってみよう!って思って、エステティシャン、リンパケアマイスター、発酵食品マイスター、薬膳ソムリエ......結構取りましたよ(笑)。でも、それが自分を救うことはなかったです」

 一向に出口が見えない宇津木にひとつの転機が訪れる。それが聖火ランナーの依頼だった。東京オリンピックの聖火ランナーの第一走者としての大役を2011年に世界一になったなでしこジャパンが担うことになったのだ。ここで当時のメンバーと再会したことで宇津木の止まっていた時計の針が少しずつ動き始めた。

(後編に続く>>)