1997年から2017年まで現場付き通訳(現在は社内業務中心で必要に応じて現場通訳を行なっている)としてヤクルトスワロ…

 1997年から2017年まで現場付き通訳(現在は社内業務中心で必要に応じて現場通訳を行なっている)としてヤクルトスワローズの外国人選手を支えてきた近藤広二氏。「ヤクルトの外国人選手は活躍する」と言われてきたのは、近藤通訳の公私にわたるサポートが大きかった。いわば「助っ人の助っ人」である。その近藤通訳に「印象に残るヤクルトの外国人選手ベスト5」を挙げてもらった。

雨が大嫌いだった問題児

マーク・エーカー(1998〜99年)
12試合/0勝2敗/防御率2.34
※成績はヤクルト在籍時のもの(以下同)

 1998年、ヤクルトは前年まで先発ローテーション投手として活躍した206センチのテリー・ブロスに代わり、やはり203センチの長身エーカーを獲得。1年目は12試合に登板して防御率2.34とまずまずの成績を挙げたが、打線の援護に恵まれず0勝2敗に終わった。

「エーカーは雨が嫌いで......雨が降ると練習に来ないんです(笑)」

 エーカーは二軍の埼玉・戸田グラウンドで練習することも多く、当時住んでいた代々木上原からは結構遠い。電話をかけても応答がないことを心配した近藤通訳がNTTに問い合わせると、受話器は外れていないという。当時は現在ほど携帯電話が普及していない時代。何かあったのではないかと心配した近藤通訳は、エーカーのマンションを訪ねた。

「エーカーは家にいたのですが、電話線を引き抜いていたんですよ」

 雨が嫌いなうえに、戸田まで行くことが億劫になったのだろう。さすがに球団からは罰金を課せられた。

 こんなエピソードもあった。エーカーはGUCCIの腕時計を愛用していた。「いい時計だね」と近藤通訳が言うと、エーカーはこう返してきた。

「10勝したらこれと同じ腕時計を買って、コウジ(近藤通訳)にプレゼントするからな」

 しかし、来日2年目は肩・ヒジを故障して登板なし終わった。結局、その年限りで退団となったが、エーカーは自身がしていた腕時計を外して近藤通訳に惜別のプレゼントとして手渡したそうだ。

 余談だが、チーム関係者からはタレントの井上順に似ているともっぱらの評判だった。

試合中に一目散で帰宅

ロベルト・ペタジーニ(1999〜2002年)
539試合/595安打/打率.321/160本塁打/429打点

「私が担当した打者のなかで、"ここぞ"という場面で必ず打ってくれたのがペタジーニです。とにかく勝負強いバッターでした。ヒーローインタビューを受ける機会が多く、そのたびに私が駆り出され、多くのマスコミに囲まれて緊張した覚えがあります。

 ペタジーニは在籍した4年間で本塁打王2回。打点王も1回獲得。若松勉監督時代の2001年にMVPを獲得し、日本一の原動力になった。

 ペタジーニの猛打に、各チームは容赦なくインコースを攻めてきた。メジャーでは「目には目を」の慣習があるが、ヤクルトは当てられても報復しない伝統がある。2002年の甲子園での阪神戦で、「なぜ自分の仇を討ってくれないだ!」と激高。

 攻守交代時、ペタジーニは守っていた一塁からダグアウトを通り抜け、ロッカーに直行。速攻で荷物をまとめてタクシーに乗り、そのまま宿舎に帰ってしまった。

「一瞬、みんな何が起こったのかわからず、呆然としていました。周囲に有無を言わせぬ行動は、本当に衝撃的でした」

 そしてペタジーニと言えば、25歳上のオルガ夫人の存在だ。ヤクルトは「移動はチーム全員で一緒に」が原則だったが、ペタジーニは愛妻であるオルガ夫人と行動をともにしたいと。その都度、若松監督に許可を取るのも、航空チケットや宿泊のホテルを手配するのも近藤通訳の役目になってしまった。

「ペタにとっては1に神、2にオルガ夫人、3に野球の位置づけでしたね」

 2、3年前に「離婚した」との噂が流れ、あるテレビ局がフロリダにある自宅を直撃したしたことがあったが、「相変わらずラブラブで出迎えたそうです」(近藤通訳)。

ファンサービス旺盛の人格者

アレックス・ラミレス(2001〜07年)
982試合/1184安打/打率.301/211本塁打/752打点

「打てなかったりすると道具にあたる外国人選手は多いのですが、ラミレスに限ってはそうしたことが一切なかった。アンガーマネジメント、心のコントロールにすぐれた選手でした」



アレックス・ラミレス(写真左)ら多くの外国人選手を支えた元ヤクルト通訳の近藤広二氏

 また「アイーン」や「ゲッツ!」の一発芸で子どもたちを喜ばせるなど、ファンサービス精神が旺盛だった。さらにヒット1本につき1万円を、施設に寄付していた。

「プロ野球選手は試合のない月曜日が休みになることが多かったのですが、その数少ない休みを利用して施設に足を運び、子どもたちと触れあっていました」

 現役引退後は10年間Bクラスに低迷していたDeNAの監督に就任。指揮を執った5年間でAクラス3回と結果を残した。これもラミレスの研究熱心さの賜物だと近藤通訳は言う。

「入団当初は外角のスライダーが打てず、空振りばかりしていました。それが次第にライト前ヒットを放つようになったんです。当時のセ・リーグは予告先発制ではなかったのですが、ラミレスは先発投手を予想して情報を収集し、捕手のリードも映像を見て研究していました。しかも球場別のデータも調べていました。そういう細かなデータ分析を監督になってもやっていたのだと思います」

 外国人選手初の通算2000安打達成、そして監督としての成功も納得できる。

突然バーテンダーに⁉︎

ジェイミー・デントナ(2009〜10年)
217試合/180安打/打率.263/36本塁打/133打点

 高田繁監督時代の外国人選手で、一部のファンの間で髪型が大泉洋を彷彿とさせると言われていた。来日1年目の2009年は打率.276、21本塁打、83打点とまずまずの成績を残した。

「なかでも印象に残っているのは、クライマックスシリーズのファーストステージの中日戦。この年、防御率1位のチェン・ウェイン(現・阪神)から逆転2ランを放ったんです。あの1本は今でも鮮明に覚えています」

 だが2年目は、不振から左打者のジョシュ・ホワイトセルとの併用になり、とくに相手が右投手の時はベンチを温めることが多くなった。

 ある名古屋遠征でのナイトゲーム終了後、近藤通訳とデントナは行きつけのバーで一緒に酒を飲んでいた。翌日の試合で相手の先発予想が右投手だったため、出番がないと思っていたデントナの酒の量は増えていた。

「同じテーブルにいたはずのデントナが、気がつけばいなくなっている。どこに行ったんだろうと店内を探したら、カウンターの中でシェーカーを振って客にふるまっていたんです。そんな茶目っ気のある選手でした」

 近藤通訳はその日は先に帰宅したのだが、翌日の試合前、デントナが尋ねてきた。

「コウジ、なぜか知らないキーを持っているんだけど......これはキミのか?」

 なんとデントナが持っていたのは店のキーで、閉店時のカギ閉めまでやっていたのだ。結局、その日の試合後もそのバーに行くはめになってしまった。もう10年以上も前のことだからこそ明かせるエピソードである。

ヤンチャ助っ人が大記録達成

ウラディミール・バレンティン(2011〜19年)
1022試合/959安打/打率.273/288本塁打/763打点

 バレンティンは、マリナーズ時代にイチローと1、2を争う強肩と評判の選手だったが、来日してからは守備力が落ち、逆に打撃が開眼した。

「日本の焼肉が大好きで、みるみるうちに体が大きくなって、動きが鈍くなってしまった(笑)。気分屋のところがあり、集中力に欠けることもありました。だけど、バッティングに関しては、本当にすごかった」

 2011、2012年とも31本塁打で本塁打王に。2013年には日本記録となる60本塁打を放った。野村克也は「ワシや王貞治がつくった本塁打記録を簡単に抜かれるとは......」と嘆いていたが、インコース高めの球はヒジをうまくたたんで打ち、60号アーチはランディ・メッセンジャー(阪神)のアウトコース低めをライナーでライトスタンドに叩き込むなど、パワーだけじゃなく技術も一級品だった。

「2013年は毎日ホームランを打っているような感覚でした。これまで日本記録に挑んだ外国人選手は何人もいたと思うのですが、バレンティンが彼らと決定的に違ったのは量産ペース。どのコースもホームランにしていました。

 日本記録のあと、ホームランボールをみんなほしがっていて......。私は58号のボールを記念にもらいました。もし、このまま58号で終わっていたら、このボールは貴重だなとドキドキしていましたね(笑)。前人未到の記録を樹立して、通訳の私にもこれまで見たこともない景色を見せてくれました。そういう意味でもバレンティンは忘れられない外国人選手のひとりですね」

 バレンティンはヤクルト時代の9年間でじつに8回も30本塁打以上をマークした。その打てなかったシーズンは、奇しくもヤクルトがリーグ優勝を遂げた2015年。「自分は運がなかった」と、あのヤンチャなバレンティンもさすがに落ち込んだそうだ。

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 もちろん、このほかにも記憶に残る外国人選手は数多くいる。通訳冥利につきる瞬間はどんな時なのだろうか、最後に聞いてみた。

「グラウンドはもちろん、球場を離れても一緒にいる時間が長いので、やっぱり活躍してくれるとうれしいですね。バレンティンが60号を打った時、ヒーローインタビューで『監督やチームメイト、そして通訳に感謝する』と言ってくれたんです。私がマスコミに向けて訳す時に恥ずかしくて"通訳"のところは省いたんですが、その言葉を聞いてこれまでの苦労が報われた気がしました」