サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。重箱の隅をつつくような、サッカージャーナリスト大住良之の「超マニアッ…
サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。重箱の隅をつつくような、サッカージャーナリスト大住良之の「超マニアックコラム」。今回は、「トータルフットボールの父」について。
■ミケルス以前にトータルフットボールは存在した?
スペインのFCバルセロナの監督という立場のままで1974年ワールドカップでオランダ代表を率い、世界にセンセーションを巻き起こしたミケルスは、1965年1月から1971年の夏までオランダのクラブ「アヤックス」を率い、降格の危機を救うだけでなく、オランダ・チャンピオンにし、さらには欧州チャンピオンにまで引き上げた男である。1974年ワールドカップのオランダ代表は、このときのアヤックスのスタイルをそのまま踏襲したものであり、ミケルスは「トータルフットボール」の父と呼ばれた。
だが、多くのサッカー歴史家は、「オランダ、アヤックス以前にもトータルフットボールを実現した監督は存在した」と主張する。そうした監督のひとりが、1960年代にウクライナのディナモ・キエフを率いたビクトル・マスロフである。ウクライナとトータルフットボールがここで結びつく。
■ポジションはなく、あるのは「フットボーラー」だけ
1960年代のウクライナは、もちろん、旧ソビエト連邦を構成する共和国のひとつである。旧ソ連時代には全国リーグがあったが、ディナモ、スパルタク、CSKAなどの首都モスクワ勢がタイトルを独占していた。その独占を初めて破ったのが1961年のディナモ・キエフの優勝であり、1964年にマスロフが監督に就任すると、その指導下、ディナモ・キエフは1966年から1968年まで3連覇を達成する。
マスロフのサッカーは「プレッシング・スタイル」と表現された。ピッチ全面で猛烈なプレスをかけ、ボールを奪う。そして相手ボールを奪うと、一挙に相手ゴールに襲いかかっていく…。
「マスロフの指揮下のディナモ・キエフには、ストライカー、ミッドフィルダー、あるいはディフェンダーというような概念はなかった。あったのは、『フットボーラー』だけだった。彼らはピッチ上のあらゆる局面でその状況に適したプレーができなくてはならなかった」
こう語ったのは、マスロフ着任の1年目、1964年にFWとしてディナモ・キエフでプレーし、後に監督として帰還してディナモを再び旧ソ連で無敵のチームに仕立て上げたバレリー・ロバノフスキーである。1960年代といえば、「冷戦」の真っ最中である。残念ながら、情報統制も厳しく、旧ソ連時代の国内サッカーが西欧や世界で報じられることはほとんどなかった。そしてマスロフとディナモ・キエフの革命的なサッカーが世界に喧伝されることもなかった。
■天才的な芸術家を止めたプレッシング
キエフ生まれの「ウクライナ人」であったロバノフスキーとは異なり、マスロフはモスクワ生まれの生粋の「ロシア人」であった。1910年に「帝政ロシア」のモスクワに生まれ、トルペドなどモスクワのクラブでプレー、指導者としての仕事も、トルペド・モスクワでスタートした。ディナモ・キエフの「プレッシング・スタイル」がどのような経過で編み出されたのか、はっきりとはわからない。しかしモスクワ勢に対抗するためと考えれば、想像することができるような気がする。
当時のモスクワのビッグチームには、芸術家と言っていいような名選手がそろっていた。トルペド・モスクワのバレンチン・イワノフ、スパルタク・モスクワのイゴール・チスレンコなどである。彼らのような天才を止めて勝つには、チーム全体で激しく動き、プレスをかけて相手に自由にプレーさせないようにするしかない。そこでマスロフはディナモ・キエフの選手たちのフィジカルを徹底的に鍛え、ボールがない場所での動きを増やすことで対抗しようとしたのである。