日本代表「私のベストゲーム」(7)前田遼一編(前編)これまでに数多くの選手たちが日本代表に選出され、W杯やW杯予選、アジ…

日本代表「私のベストゲーム」(7)
前田遼一編(前編)

これまでに数多くの選手たちが日本代表に選出され、W杯やW杯予選、アジアカップやコンフェデレーションズカップなど、さまざまな舞台で活躍してきた。そんな彼らにとって、自らの「ベストゲーム」とはどの試合だったのか。時を経て今、改めて聞いてみた――。

 ストライカーらしい発想なのだろう。

「FWとして求められていることは、まずはゴールなので。そこは外せませんでした」

 前田遼一は、自身の日本代表ベストゲームを選ぶにあたり、そう条件を挙げた。

「思い浮かんだのは、(自分が)点をとった試合だけでした」

 なかでも「すぐにパッと思い浮かんだ」という候補が、2試合あったという。

 ひとつは、ワールドカップ・ブラジル大会のアジア最終予選、ホームで行なわれたイラク戦だ。

 ワールドカップ最終予選という重要な試合で、しかも自らのヘディングシュートが決勝点となり、1-0で勝利したとなれば、印象に残るのは当然だろう。

 そしてもうひとつが、今回、前田がベストゲームに選んだ試合である。

「こっち(イラク戦)かなっていうのも少しありましたけど、ほぼ悩まずに決まりました。ゴールやアシスト以外にも、当時の代表で求められていた前からの守備とか、起点になる動きとか、そういうことも含めると、この試合だったかな、という思いがあります」

 4年に一度のアジア王者を決めるビッグトーナメント。そんな重要な大会の準決勝で、しかも、相手が宿命のライバルだったことはもちろんだが、「自分がゴールを決められたっていうのが、やっぱり大きかったです」。

 2011年1月25日、カタール・ドーハで開催されたアジアカップの準決勝、韓国との一戦である。



2011年アジアカップ準決勝の韓国戦、前田遼一は同点ゴールを決めるなどチームの勝利に貢献した

 前年10月にアルベルト・ザッケローニ監督が新たに指揮を執ってから、およそ3カ月。ワールドカップ・ブラジル大会を目指す日本代表にとって、このアジアカップは初めて迎える公式戦だった。

 と同時に、前田にとっては、「僕自身、それまで代表に定着したことがなかったので、初めてレギュラーとして出させてもらった大会でした」。

 当時の前田は、2009年、2010年に2年連続J1得点王を獲得していることからもわかるように、Jリーグ屈指のストライカーとして名をはせていた。

 だが、実績に比して、不思議と日本代表には縁がなかった。2007年に日本代表デビューは済ませていたが、ザッケローニ監督の就任前に限れば、国際Aマッチ出場はわずか5試合に過ぎない。

 当然、ワールドカップをはじめとするビッグトーナメント出場の経験はなし。このアジアカップは、前田が29歳にしてようやく迎えた、事実上の"日本代表デビュー戦"と言ってもよかったかもしれない。

「自分がこの先、代表でプレーしていけるのかどうかが問われている、すごく大事な大会だったと思います。ザックさんに呼んでもらった時から、年齢的にはすごく上なのも感じていて、常にもうあとがないっていう気持ちでやっていました」

 だが、そんな気合いが空回りしたのか、グループリーグ初戦のヨルダン戦では、先発でピッチに立ちながら、前半だけの出場で李忠成との交代を命じられた。

 チームは1-1で引き分けたものの、前田個人には、ほろ苦いどころか、最悪に近いスタートとなっていた。

「この大会で結果を出せなかったら、もう終わりっていう思いでやっていたのに、前半だけで交代させられるくらいなので、いいパフォーマンスを出せず、チームもギリギリの引き分け。力になれていないっていう感覚はありました」

 ところが、2戦目のシリア戦。前田は再び、先発出場を告げられる。

「もう一回チャンスを与えてくれた監督の期待に応えなきゃいけない、っていう気持ちと同時に、やっぱり監督の求めることは自分が考えていることと違ってはいないんだな、っていう思いがありました」

 前田の頭にあった「監督の求めること」とは、具体的に言えば、こうだ。

「FWであっても点をとるだけじゃなくて、しっかり守備をするとか、チームを助ける動きも求められているので、それをやらなきゃいけない。

 僕が試合に出してもらっているのは、そこがあったからだと思っていましたけど、この2戦目に先発で出してもらった時、特にそれを感じました。それが監督からの信頼だったかはわかりませんが......、頭の整理がついた感じはありました」

 その後も先発出場を続けた前田は、指揮官の期待に応えるように、3戦目のサウジアラビア戦では2ゴールを決め、5-0の完勝に貢献。チームも順当に勝ち上がり、続く準々決勝ではカタールを下し、ベスト4進出を決めた。

「チームとともに自分も成長していけたらいい」

 そんな思いで大会に臨んでいた前田は、パフォーマンスの波こそあれ、先発の座を譲ることなく、日本代表の最前線に立ち続けた。

 そして迎えた準決勝の韓国戦。2大会ぶりのアジア王座奪還に向け、最大のヤマ場とも言える試合は、前田にとっても実力が試される大一番だったと言っていい。

 試合は、「力的には両チーム五分五分の戦いでした」という前田の言葉どおり、立ち上がりから一進一退の攻防が繰り広げられた。

 ところが、日本は思わぬ失点を喫してしまう。前半23分、相手ロングボールに対応したセンターバックの今野泰幸がファールをとられ、韓国にPKを与えてしまったのである。

 試合の入りは悪くなかった。それだけに、日本にとっては嫌な失点だったはずだが、「正直、(自分が得点を)とれそうだとまで考えていたわけではなかったですけど、それまでの時間もいいイメージでプレーできているな、とは思っていました」と前田。

 試合の流れを引き戻す値千金の同点ゴールが決まるのは、36分のことだ。

「韓国に先制され、相手ペースに試合が傾きかけたところで、すごく大きなゴールをとれたと思います」

 左サイドで縦パスを受けた本田圭佑が、うまくタメを作って長友佑都のオーバーラップを促すと、本田からパスを受けた長友は、スピードに乗ってペナルティーエリア内に進入。マイナス方向へ短いクロスを送った。

 そこへ絶妙なタイミングで走り込み、ワンタッチで仕留めたのは前田である。

「左サイドでいい崩しがあって、自分はどこにスペースがあるかを考えながら動いていました。僕自身が空いているなと思ったところに、佑都もそれを感じてすばらしいタイミングでクロスを出してくれた。だからこそ、得点が生まれたと思うし、出し手と受け手の考えが一致したゴールでした」

 これで振り出しに戻った試合は、その後はスコアが動かず、1-1のまま90分間を終了。延長前半97分に、途中出場の細貝萌のゴールで日本がリードすると、「正直、延長戦になったら、もう体力はいっぱいいっぱいでした」という前田は、守備固めの伊野波雅彦と交代となった。

 結果的に試合はそのままでは終わらず、日本は延長後半に2-2に追いつかれてしまうのだが、「嫌な感じはありましたけど、そこはもう仲間を信じてというか。そういう気持ちでいたのを覚えています」。

 日本はPK戦を3-0で制し、決勝へと駒を進めた。

「やりきった感というか、体力も全部使い果たした感はありました。結局(勝ち越しの)ゴールはとれなかったんですけど、味方との距離感だったり、自分で仕掛けるプレーだったり、局面、局面で周りの選手ともいい関係を築けていた試合でした。最後は代わりましたけど、代表戦のなかでは一番自分の持ち味を出せた試合だったのかな、っていう印象があります」

 結局、前田はこの大会で全6試合に先発出場し、3ゴール。チームも決勝でオーストラリアを下し、アジア王者に返り咲いた。

 当然、そこには相応の達成感があっただろうと想像するが、前田は「それもありましたけど、もっと成長しないとこの先代表にいられないっていう思いと、その両方がありました」と言い、「優勝はしたけど、勝負はこれからだな、っていう思いはすごく強かった」と、当時を振り返る。

 しかし、だからこそ、韓国戦は重要だった。自らを日本代表につなぎとめた試合。そう表現しても大袈裟ではないだろう。

「初戦もそうでしたけど、準々決勝のカタール戦にしても、いい仕事ができずに途中で代えられてしまって。それでもチームが勝ってくれたことで、また使ってもらえて、韓国戦では点をとって勝つことができた。よかったり、悪かったりを繰り返しながらも、ザッケローニ監督には我慢して使ってもらった印象はすごくあります」

 準決勝でチームを救った一発は、イタリア人指揮官の信頼に応えると同時に、自らの存在価値を示すゴールでもあった。

 はたして前田は、その後も日本代表の1トップを務め続け、ワールドカップ最終予選でも全8試合に出場(うち7試合に先発)。本大会出場へ大きな役割を果たすことになる。

「もしかしたら、なんであいつが前(1トップ)にいるんだって思っていた選手もいたかもしれない。だからこそ、ああいう重要な試合で点をとれたっていうことは、監督に対してもそうですけど、チームメイトに対しても、僕のなかでは大きかったですね。

 FWには1試合に何回かはチャンスがあるわけで、結局は、それを決められるかどうか。あの韓国戦は、そのチャンスを決められたっていう意味で、とても印象に残っている試合です」

(つづく)

前田遼一(まえだ・りょういち)
1981年10月9日生まれ。兵庫県出身。暁星高卒業後、ジュビロ磐田入り。加入当初は選手層の厚いチームでなかなか出番を得られなかったが、4年目からは主力FWとして奮闘。2009年、2010年には得点王に輝いた。その後、2015年にFC東京に移籍し、2019年からはFC岐阜でプレー。2021年の年明けに現役引退を発表した。ジュビロ在籍時には日本代表でも活躍。Aマッチ出場33試合、10得点。現在はジュビロ磐田U-18の監督を務めている。