広澤克実は1992、93年にヤクルト、1996年に巨人、2003年に阪神と、3球団で4番、リーグ優勝を経験した唯一の選…
広澤克実は1992、93年にヤクルト、1996年に巨人、2003年に阪神と、3球団で4番、リーグ優勝を経験した唯一の選手である。そして、当時のそれぞれの監督であった野村克也(ヤクルト)、長嶋茂雄(巨人)、星野仙一(阪神)を誰よりも知る男である。
昨シーズン、高津臣吾監督(ヤクルト)と中嶋聡監督(オリックス)がともに2年連続最下位からリーグ優勝を遂げ、「スポーツクラブマネジメント」(スポーツ組織の育成・管理運用)に着目される今だからこそ、野村、長嶋、星野の「3大監督」について広澤に語ってもらった。

90年代にしのぎを削ったヤクルト・野村監督(写真左)と巨人・長嶋監督
【野球観を言語化した野村克也の功績】
広澤が挙げる「名監督の条件」は以下の3つである。
① 勝利
② 選手育成
③ リーダー育成
広澤は1985年のプロ入り以来、長きにわたりこの世界に生きてきたが、「この3条件をすべて備えていたのは、野村さん、長嶋さん、星野さんの3人だけではないか」と言い、「3人ともこの3つを意識してチームの指揮を執っていた」と語る。方法論は三者三様で、キャラクターもそれぞれ違っていたが、広澤が語る「名監督の条件」という点では共通していた。
広澤は「野村さんの功績は、ご自身が思い描く野球観を言語化したこと」と語る。1990年のヤクルト監督就任時、自身が追求した野球理論を『野村の考え』としてまとめ、選手たちにミーティングで説いた。
たとえば、「外野飛球(犠飛)の打ち方」についてはこうだ。
(1)70〜80%の力で打つ
(2)目付けを高めに置く
(3)意外に伸びる流し打ち
つまり、ただ漠然と力任せで大振りするのではないということを伝えたかったわけだが、それまでは類まれな素質を武器にプレーしてきた選手たちが、言語化された教えどおりに意識的にプレーすれば、さらに技術が向上して成功率が高まるという。
2021年に東京五輪で金メダルを獲得した侍ジャパンの稲葉篤紀監督も、日本一に輝いた高津監督も、行き詰まった時には『野村の考え』を何度も読み返した。
次に「長嶋さんには、プロとは何かを教わった」と広澤は述懐する。「今日のお客さんは喜んでくれたかな。入場チケットの2倍の価値はあったかな」と、いつもファンの反応を気にかけていたという。
だから、ヒーローインタビューで「いい仕事ができました」と言う選手に違和感を覚えていたそうだ。たしかに、プロ野球は自らがお金を稼ぐ仕事(ビジネス)ではあるが、「ファンがまた試合を見に来たい」と思ってくれることが大事であると、長嶋は常々語っていた。当然、広澤も大きな影響を受けた。
「自分が笑顔になるためにプレーするのがアマチュア。まわりを笑顔にするためにプレーするのがプロであり、報酬をいただけるという考えになりました」
そして星野には言葉の力、コメント力を学んだ。野村や長嶋もコメントには定評があったが、星野は群を抜いていたと広澤は語る。
「アクセントあふれる言葉づかいのうまさは、野村さんや長嶋さんでも真似できない。あれは選手のモチベーションを上げる巧みな話術でした」
阪神の星野監督が誕生した2002年のこと。長く暗黒時代が続いていたチームは、リードされていれば「そのまま負けるだろう」、勝っていても「逆転されるだろう」という空気が蔓延していた。
そんななか、ある日の試合後の緊急ミーティング。星野の口調は驚くほど強かった。
「オレには情がある。だが、非情もあるんだ。おまえら......覚悟しておけよ!」
その言葉に選手たちは刺激を受けた。あまり感情を出さない今岡誠が、ヒットを放てばガッツポーズを繰り返し、翌年に首位打者を獲得。投手では井川慶が闘志あふれる投球で、同じく2003年に20勝を挙げて最多勝。チームも1985年以来となる18年ぶりのリーグ優勝を遂げたのである。
【ID野球とカンピューター】
野村は現役時代、三冠王を獲得するなど「打てる捕手」としても名を馳せたが、指揮官となってからは投手力を中心とした守り勝つ野球を標榜し、データ重視の「ID野球」を推進した。
広澤は「なくて七癖と言うけれど、ある投手がカウント0ボール2ストライクになると投げてくる球種のクセとか、一塁への牽制は何球まで投げ続けるとか......そうしたものをベンチで探っていました」と語る。
一方、野村と覇権を争った90年代の巨人は、松井秀喜、高橋由伸の生え抜きの強打者だけでなく、他球団のスラッガーを次々とFAで獲得するなど、超強力打線が完成した。このように長嶋は打撃重視と思われがちだが、勝ち試合では橋本清・河野博文・石毛博史に継投する「勝利の方程式」を確立するなど、実際は投手力も重視していた。
また長嶋と言えば、セオリーよりも感性や勘で采配を振るうこともあり、「カン(勘)ピューター」と呼ばれることもあった。だが広澤はこう反論する。
「いや、意外とデータ重視。でも、ファンが持つ"長嶋像"を大事にしていて、細かな資料を気にかける自分の姿を見たくないだろう、ということをわかっていた。ベンチでは下を向いてブツブツとグチを言っていたこともあった。それでも、いざ顔を上げた時には一切そんな表情を見せなかった」
長嶋は誰よりもファンを大事にし、時には"長嶋茂雄"を演じていたのだろう。
いかにも対照的なふたりだが、監督時代はバチバチと火花を散らしていた。
「野村監督と長嶋監督は、お互いを意識しすぎてソリが合わなかった(苦笑)」(広澤)
いろいろな判断をしながらゆっくり決断を下す野村が、巨人との試合が始まると冷静さを失っていたという。一方の長嶋も、野村からの再三の"挑発"に対して平然を装っていたが、実際は違っていたと広澤は振り返る。
「怒っていないフリをしながらも、怒っていましたよ(笑)。ヤクルト戦で先制されると、あの動じない長嶋さんがイライラし始める......」
そんな指揮官の負けられない戦いに選手も触発されたのか、死球に端を発した両チームの乱闘事件も勃発したこともあった。
しかし、2018年2月に行なわれた『ジャイアンツ×ホークスOB戦』で、ふたりが一緒に撮った記念写真を見た広澤はこんな印象を抱いたという。
「80歳を超えてお互いの思いは氷解していたのでしょうね。とてもいい写真でした」
【野村の遺産か、星野の采配か】
野村は1999年にヤクルトから阪神の監督になったが、3年連続最下位という結果に終わった。広澤は2000年から阪神に在籍し、4年間、野村監督(00、01年)、星野監督(02、03年)に仕えた。
広澤がこんなエピソードを教えてくれた。
2000年終了時点で、野村率いる阪神は2年連続最下位。チーム内外から若返りを求める声は強くなり、成績不振の38歳、広澤は矢面に立たされた。その時、野村とこんなやりとりがあった。
「来年どうする? どうしたい?」
「もし野村監督が辞めろと言うなら、すぐ引退します。僕の進退は監督が決めてください」
「もう1年やってみるか。辞める時は一緒に辞めよう」
迎えた2001年、広澤は規定打席には到達しなかったが、打率.284、12本塁打と復調。試合のお立ち台で『六甲おろし』を歌い、ファンから「代打の仏様」と呼ばれた。
しかしその年のオフ、"サッチー騒動"の余波で急転直下、野村が監督を辞任することになった。広澤は「野村監督と一緒に辞めなきゃ。でも、来年の契約は済ませたし、どうしたらいいんだろう......」と悩んでいると、野村から「がんばれ広澤。おまえは続けろ」と声をかけられたという。
そして野村のあとを継いだのが星野で、2003年に18年ぶりのリーグ優勝を飾った。また楽天でも、野村のあとマーティン・ブラウンが監督を1年務めたのちに星野監督が就任して、2年目に球団初の日本一へと導いている。
阪神時代にしても、楽天の例にしても、優勝したのは"野村遺産"か"星野采配"か、よく議論される話である。広澤の見解はこうだ。
「井川は四球を出しても、野村監督が我慢して使い続けた。その経験が(20勝で最多勝に輝いた)2003年に生きた。それに矢野(燿大)を一人前の捕手に成長させたのも野村監督です。一方、星野監督はくすぶっていた今岡を蘇生させ、金本(知憲)や伊良部(秀樹)など、大型補強を敢行した。だから優勝は、ふたりのコラボレーションの結果だと思います」
ちなみに、星野は鉄拳制裁も辞さない熱血漢のイメージが強いが、実際はどうだったのだろうか。
「私が見た限り、阪神時代はそんなことは一度もなかった。金本や八木(裕)らのベテランにとても気を遣っていた。ただ、彼らより年上の私はぞんざいに扱われていましたが......。明治大の後輩だから(笑)」
ただチームを勝利に導くのではなく、選手を育成し、将来のリーダーも育てた3人の功績は、今もプロ野球界に多大なる影響を与えている。
(文中敬称略)