サッカーあるところ、蹴球放浪家・後藤健生あり。時には大地のみならず、洋上にも立つ。サッカー日本代表が16年ぶりのオリン…

 サッカーあるところ、蹴球放浪家・後藤健生あり。時には大地のみならず、洋上にも立つ。サッカー日本代表が16年ぶりのオリンピック出場を目指した1984年、蹴球放浪家はシンガポールに赴いた。その決戦の地、いや至る道のりにも、驚きが待っていた。

■有名ホテルの寿司に舌鼓

 航海のハイライトはバンコク入港でした。タイの首都バンコクの港はチャオプラヤー川の河口から約30キロのところにあります。新さくら丸は、そのバンコク港まで遡って行くわけです。いくら流量の大きな大河とはいえ、1万6000トンの大型客船が、小舟が行き交う川を航行するのはかなり難しい作業のようです。その操船を船橋(ブリッジ)で見学させてもらったのも貴重な体験でした。

 もちろん、現地滞在中はバンコクやシンガポールを観光します。

 講師の1人で体育を担当していた先生(後に高名なスポーツ科学の研究者になりました)のお兄さんが寿司職人で、シンガポールの有名な日系ホテルで寿司店を経営していたので、高級な寿司も(タダで!)堪能できました。

■16年ぶりの五輪出場へ高まる期待

 1984年の日本のサッカー界の最大のイベントは、ロサンゼルス・オリンピック予選でした。森孝慈監督の下で強化を続け、同年1月に来日したブラジルのコリンチャンスを相手に2連勝したこともあって、16年ぶりのオリンピック出場の期待が高まっていたのです。最終予選は4月にシンガポールでのセントラル方式で行われました。

 ところが、日本代表は初戦でタイの若手FWピヤポン・プオンにハットトリックを許して2対5で敗れ、マレーシア、イラク、カタールにすべて1対2で敗れて4連敗。最下位で予選敗退となりました(「蹴球放浪記」第65回「タイの2人のスーパーマン」の巻参照)。

 そして、全日程終了後、日本代表チームの打ち上げが行わることになり、僕も呼ばれて出席しましたが、会場はなんとつい2か月前に「若人の船」でシンガポールを訪れた際に訪れた、あの日系ホテルの寿司店でした。

 まだ、プロ化される前のことでした。当時の日本代表チームは三菱重工や古河電工などの実業団チームの選手たちとプロ的なチーム作りをしている読売クラブや日産自動車の選手たち。さらに風間八宏という名前の筑波大学の学生も参加する“混成チーム”でした。

■クラブチームと企業チームのカラーの違い

 それぞれのチームによって、選手たちの雰囲気はまったく違っていました。

 読売クラブの若者たちは打ち上げの席でもおおはしゃぎ。酔っぱらった仲間をプールに放り込んだりして大暴れです。かと思うと、実業団の選手たち、例えば日本代表のツートップの原博実さん(三菱)や松浦敏夫さん(日本鋼管)はまるで新橋あたりの飲み屋にいるサラリーマンのように静かに盃を傾けていました。そして、読売クラブ所属で早稲田大学講師でもあったキャプテンの加藤久さんが両者を取り持とうとして大奮闘していました。

 長沼健専務理事(東京、メキシコ両オリンピックの時の日本代表監督)に水鉄砲で水をかけるなどという大それたことができるのは、加藤久さんだけでしょう。

 40年近く前の、遠い遠い昔の思い出でした。

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