私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第16回初のW杯へ。日本中が熱狂した濃密な2カ月~山口素弘(2)(1)はこちら>…
私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第16回
初のW杯へ。日本中が熱狂した濃密な2カ月~山口素弘(2)
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フランスW杯アジア最終予選、日本は3戦目に宿敵・韓国と対戦した。
その4年前、カタール・ドーハでセントラル開催によって行なわれたアメリカW杯の最終予選では、カズ(三浦知良)のゴールで1-0と勝利。日本は新たな歴史の扉を開ける寸前までいったが、最終的には得失点差で上回った韓国に出場切符を譲ってしまった。
それから時を経て、2グループに分かれてホーム&アウェー方式で開催されることになった最終予選でも同組となり、W杯の出場権を争う最大のライバルとなった。そのホームでの試合、後半22分に山口素弘が劇的なループシュートを決めて日本が先制した。
「この試合は、先制点を持つ意味がすごく大きかった。ただ、『このままでは終わらないだろうな』とも思っていた」
韓国は点を取り返すべく、MF高正云(コ・ジョンウン)に代えてFW金大儀(キム・デイ)を投入。攻撃的にシフトしてきた。その1分後、日本の加茂周監督はFW呂比須ワグナーに代えてDF秋田豊をピッチに送り出した。
山口は、秋田の投入メッセージをこう捉えていた。
「相手が前に圧力をかけてきているので、後ろの枚数を増やして、スペースを埋めながらゲームを進めていく、ということだと思っていた。
そこで、守備面で言うと、下がってブロックを敷いて守るのか、それとも(ある程度)前から圧力をかけて、(相手を)ゴール前に来させないような守りをするのか。さらに、金大儀は崔龍洙(チェ・ヨンス)との2トップではなく、少し下がり目の位置に入ったので、その金大儀に秋田をつかせるのか、対処する必要があった。
でもこの時は、いずれも中途半端だった。守備の仕方が定まらないし、秋田を金大儀にベタづきにさせることもできなかった」
日本は、金大儀のポジションが曖昧だったため、崔龍洙の1トップに3バックで対応することとなり、後ろの人数がだぶついていた。一方で、中盤の数は韓国のほうが多くなり、前に飛び出してくる選手が増えた。日本は中盤の守備が混乱し、徐々に相手のペースになっていった。
「(韓国は)崔龍洙の下に金大儀がいるような形だったので、まずはそれをどうするのか。加えて、韓国の2列目からの飛び出しには(中盤の)自分らがついていくのか、3バックでひとり余っている選手に受け渡していいのか。そこの判断もすごく難しかった。
自分たち中盤の選手は、できるだけ後ろには下がりたくないんですよ。DFラインに吸収されると、全体がどんどん下がっていってしまうので。自分たちの位置を保ちながら、どうやって守るのかという整理がその時はできていなかった」
結果として、山口ら日本の中盤の選手たちは後ろに下がらざるを得ない状況に追い込まれていった。そして後半39分、同点弾を決められてしまう。
相手の戦術にハメられた日本は、チーム全体の比重が後ろに傾いて、中盤の主導権を完全に奪われた。そのまま、勢いに乗る韓国に3分後、決勝ゴールまで献上してしまった。
韓国サポーターが陣取る一角から歓声が上がったあと、国立競技場のスタンドは凪のような静けさが波打った。
「のちに(先制したあと)もう1点狙って攻撃的にいったほうがよかったと思ったけど、そういう判断も含めて(当時の日本代表には)対応力がなかった。
今では相手によって、試合中にシステムを変えて柔軟に対応できるけど、当時は相手がこう来たからこう対処すればいいというレベルで、戦術眼の拙さがあったし、個人戦術の成熟度が足りなかった。海外でいろいろなチームと対戦する機会もなく、国際経験も乏しかった」
ホームで、それも最大のライバルに逆転負けを喫したショックは相当なものだった。試合後のロッカールームは静まり返っていた。
3試合を終えて、韓国が勝ち点9、日本は勝ち点4。当時、アジアのW杯出場枠は3.5(各グループ1位と、2位同士による第3代表決定戦の勝利チーム。負けたチームは大陸間プレーオフへ)。グループ首位で出場切符を手にするためには、ひとつも負けられない状況に追い込まれた。
「ホームで負けたショックはあったが、個人的にはそんなに引きずってはいなかった。次の日には、カザフスタンに移動することになっていたんで。
その飛行機のなかで(韓国戦の)反省会みたいなことをしたけど、もう終わったこと。自分の頭のなかはカザフスタン戦に向いていた。(カザフスタンは)どんなチームかまったくわからなくて不気味だったし、もう(1試合も)落とせないと思っていたからね」
カザフスタン戦は3バックに戻して戦った。相手には大柄のFWがいて、アウェーということもあって、まずは失点しないように守備から、という意識が強かったという。
カザフスタンは当初UEFA(欧州サッカー連盟)に属していたが、W杯出場をより現実的にするために、フランスW杯予選からAFC(アジアサッカー連盟)に加入してきた。選手個々はフィジカルに優れ、当たりが激しかった。
日本はそれに対して、試合の序盤はやや難儀していたものの、相手のフィジカルの強さにも慣れてくると、徐々にゲームを支配。前半22分、CKから秋田が頭で合わせて先制した。
その後も日本が主導権を握って、追加点を奪えるチャンスは再三あった。だが、その機会を逸し続けていると、試合終了間際、同点ゴールを決められてしまった。
「このドローのショックは大きかった。最後の最後にやられて、みんな、がっくりとしていた。
この試合で、韓国戦で失った勝ち点3をとり返そうとしたけど、勝ち点1に終わってしまった。アウェーだし、負けていないし、悪くはないけれど......このカザフスタン戦は勝たなければいけない試合だった」

アウェーのカザフスタン戦でまさかの引き分け。この試合後、加茂周監督が更迭された
よく、負けたあとの試合が非常に大事と言われる。そこで建て直すことができれば、先に向けて明るい兆しが見えてくるからだ。しかし、再び勝ちきれなかったり、連敗したりすると、そのダメージは倍加し、チーム全体の士気も一気に落ちる。
カザフスタン戦に引き分けた日本代表のバスの車内は、誰も言葉を発せず、重苦しい空気に包まれていた。ホテルに戻り、食事をして、選手たちはそれぞれの部屋に戻った。しばらくして、各部屋の選手たちに「集まってくれ」という連絡がきた。
「嫌な予感がした。『なんかあるな』って思った。(集合場所の)部屋に入ると、すでに加茂さんはいなかった。(日本サッカー協会の)会長の長沼(健)さんと、岡田(武史)さんが(みんなの前に)座っていた。岡田さんの強張った表情を見て、『そういうことか』って察した」
その場で、加茂監督の解任が選手に伝えられた。そして、次のウズベキスタン戦では岡田コーチが代理監督として指揮を執ることも告げられた。
「正直、驚いた。まったく(解任の)予兆とかなかったからね」
山口の脳裏には過去のさまざまな出来事が駆け巡っていた。
加茂監督は横浜フリューゲルス時代から、ともに戦ってきた指揮官である。パウロ・ロベルト・ファルカンのあとを受けて、加茂監督が日本代表監督に就任すると、山口はすぐに招集されてスタメンに名を連ねた。「一緒にW杯へ」という思いを秘めながら、志半ばで解任された加茂監督の胸中を察すると、何とも言えない気持ちになった。
「ここまで加茂さんが築き上げてきたものがあるし、それがこんな形で終わってしまうのがすごく残念だったし、悔しさもあった。同時に勝負の世界の厳しさも感じた」
監督解任が発表されたあと、山口は部屋に戻らず、リラックスルームに行った。いつもなら、選手たちがビデオを見たりして、あちこちで笑い声が上がり、賑やかな場所である。ところが、この日は違った。
そこに集まった選手たちはやや熱くなっていて、選手間の議論がヒートアップ。言い合うシーンも見られた。その際、山口が印象に残ったのは、点をとったあとの試合の進め方についての話だった。
「カザフスタン戦は先制点をとったあと、2点目がとれていれば、それで試合は終わっていたんです。でも、決められなかった。
韓国戦の逆転負けがあったので、(先制したあとは)みんなできっちり守ったほうがいい。時間稼ぎをして、逃げきる戦いをチーム全体としてやったほうがよかった、という話が出たんです。自分も『そうだな』って思いました。
でも、そう徹することができなかった。すべてが中途半端だったんです。韓国戦も、カザフスタン戦も......」
カザフスタン戦の翌日、山口はカズに声をかけた。
「カズさん、僕らからすると(カザフスタン戦でも先制したあと)2点目がほしかった。でも、とれないなら、時間稼ぎをするとか、前のほうで何かできたんじゃないですか?」
山口の言葉に、カズは黙って頷いてこう返した。
「確かにそうだな。2点目とって勝利を決めないといけなかった」
カズ自身、初戦のウズベキスタン戦以降、ゴールを奪えていない責任を感じているようだった。
(つづく)

山口素弘(やまぐち・もとひろ)
1969年1月29日生まれ。群馬県出身。東海大卒業後、1991年に横浜フリューゲルスの前身である全日空入り。以降、ボランチとしてチームの中心選手として活躍。日本代表でも奮闘し、1998年フランスW杯出場を果たす。その後、フリューゲルスが消滅し、名古屋グランパス、アルビレックス新潟、横浜FCに在籍。2007年に現役を引退し、2012年~2014年まで横浜FCの監督を務める。現在はグランパスのゼネラルマネジャー。