新田小次郎というピッチャーをご存知か。 日本海高のエースとして1981年、夏の甲子園の決勝で東大一高に0-1で敗れて準…
新田小次郎というピッチャーをご存知か。
日本海高のエースとして1981年、夏の甲子園の決勝で東大一高に0-1で敗れて準優勝。その年のドラフト会議で12球団すべてから1位入札を受けた、最速160キロのサウスポーである。
クジの結果、小次郎の交渉権を獲得したのは小金井スタジアムを本拠地とするワイルド・リーグの弱小チーム、武蔵オリオールズだった。しかし小次郎は、自分の生涯を賭ける職場を他人が引いたクジで決められるのはイヤだと言って入団を拒否、浪人の道を歩むことを決める。
するとその翌年、奇跡が起こった。オールジャパンプロ野球に御影英了コミッショナーが就任すると、新コミッショナーは突如、ドラフト制度の廃止を決定したのである。プロを志す若者の人生をクジで決めるべきではない、行きたい球団を選べないなんてバカげているなどと語った劇中のコミッショナーの言葉は、当時、ドラフトで江川卓が騒がれた時代背景と無関係ではなかったかもしれない。 まさに"作者"からのメッセージだったのではなかったか。
"作者"とは──そう、野球マンガの大家、水島新司さんである。

多くのプロ野球選手に影響を与えた水島新司氏(写真左)
【時代を先取りしていた水島マンガ】
新田小次郎を主人公とした『光の小次郎』は、1981年からおよそ3年半、週刊少年マガジン(講談社)で連載されていた。『ドカベン』『大甲子園』『野球狂の詩』『あぶさん』『男どアホウ甲子園』『一球さん』『球道くん』といった水島作品のなかではメジャーとは言いきれず、もしかしたら読んだことのない野球好きもいるかもしれない。しかしこの作品は、水島さんのプロ野球界への想いが溢れた傑作だと思う。
登場するのはすべて架空の12球団。実際のセ、パ両リーグを土台にしているとはいえ、監督や選手はもちろん、本拠地やユニフォーム、ペットマークから親会社の社名、業種までがすべて具体的に設定されている。
球団名は地名プラス、実在するMLBの球団名で、当時は球団がなかった北海道には北斗ビールを親会社とする札幌ブルワーズを配置、当時はまだ日本にひとつもなかったドーム球場を札幌に存在させていた。四国にも帝国観光を親会社とする高知ロイヤルズを、ライオンズを失って球団のなかった福岡にも平和海運を親会社とする博多パイレーツを置いた。これは今から40年も前に水島さんが理想として描いた、地域密着を是とするプロ野球だったのだ。
そして、水島さんが描いた"新田小次郎"を理想のピッチャーとして追いかけた野球人はたくさんいた。もっとも印象に残っているのは、松坂大輔である。
松坂はプロ2年目、19歳の春に『光の小次郎』を全巻、読破した。
甲子園で騒がれ、ドラフト1位でプロ入りした小次郎と松坂にはいくつもの共通点があった。ルーキーながら開幕投手の座を争ったオリオールズのエース、伊達正次はライオンズの西口文也に重なるし、先発を勝ち取った開幕戦で小次郎がひとりで投げ切ったのは、松坂が1998年夏の甲子園の準々決勝でPL学園と戦った時と同じ延長17回。最後のバッターから三振を奪って勝った直後の小次郎の疲労困憊ぶりは、あらためて読むと16年後の松坂を思い起こさせる。
さらに小次郎がその試合で投げたストレートの最速は156キロで、パ・リーグをモデルとしているワイルド・リーグのオリオールズ戦は新田の加入でどこの球場も満員。他球団のエースやスラッガーが新田との対決に燃えて盛り上がる雰囲気もまた1999年のパ・リーグに重なった。振り返ればことごとく時代を先取りしていた"水島ワールド"の本領発揮、水島さんの慧眼を痛感させられるシーンが次々と描かれていく。
【松坂に衝撃を与えた奇跡の一球】
そして松坂に衝撃を与えたのが、オールスターゲームで小次郎が投げた"光のボール"だ。
ファン投票で選ばれた小次郎はオールスターの第1戦に先発した。エキサイト・リーグのスター軍団を相手に、小次郎は立ち上がりから変化球を駆使したピッチングで三振の山を築く。狙っていたのは江夏豊超えだ。9つ続けて三振を奪うだけでなく、9人連続で一回たりともバットにかすらせることなく三振を奪ってやろうとしていたのだ。だから小次郎は変化球を交えたピッチングを続けて8人からバットにかすらせない三振を奪った。
そして最後の一球、小次郎が投げたのが"光るボール"だった。
スピードガンで測定不能、バッターにも見えない、審判もバッターが振ったからコールできたと言い、キャッチャーまでもが見えなかったと言って手首を捻挫したストレート──小次郎は、しかしそのボールをどうやって投げたのかがわからなかった。
その後の小次郎は、出逢ってしまった"光のボール"を探し求める。
ボールをギリギリまで長く持って、低めに投げる。そこからホップさせたいのだが、ワンバウンドになってしまう。もしかしたら生涯でただ一球の、もう二度と投げられないかもしれない"光のボール"を求めるがあまり、小次郎はそれまでの快刀乱麻がウソのような乱れ方をするようになる。突如コントロールを乱し、フォームがバラバラになって、すっかり勝てなくなってしまったのだ。
そのままでも相手を封じ込めるボールを持っているのに、あえて夢を見る。しかも、絵空事ではない。かつて自分で投げたことがあるリアルな一球を追い求めた、たしかな夢だ。
しかし、その光る球をどうやって投げたのか、自分でもよくわからない。たしかな感触だけは指先に残っている。ボールから離れた瞬間の不思議な感触。その瞬間、たしかにボールは光ったのだ。最高のバランスが生み出した奇跡の一球。
それが、"光るボール"──。
荒唐無稽な話だと笑われてしまうかもしれない。
【新田小次郎の境地にいた松坂】
しかしなんと現実の世界で、松坂もまた、そんな夢を描いてマウンドに立っていた。自らに無限の可能性を信じてやまない、怖いもの知らずのティーン・エイジャーはボールを"光らせよう"として、もがいていたのだ。紆余曲折だった松坂のプロ2年目、挫折を味わったプロ3年目、彼はまさに小次郎の境地にいた。松坂はこう言っていた。
「ああいうマンガって参考になりますよね。僕もああいう球を投げたいですからね。今の自分とダブるところがいっぱいありますよ。"光のボール"って低いところからグーッとホップしてくるボールでしょ? やっぱ、光るってイメージなんでしょうね。で、ちゃんと投げられなければ、下に落っこっちゃう......うーん、やっぱり同じだ(笑)」
思えば、松坂にもそういうたしかな一球があった。
1998年5月20日──松坂が横浜高校の3年春、大宮で行なわれた春季関東大会の決勝、日大藤沢高との一戦。松坂は延長13回を一人で投げ切り、2安打完封、19個の三振を奪った。その試合、松坂はこれまでにない不思議な感覚に包まれていた。
「僕が自分のなかで今日はスゴいなって感じる時は、自分でボールを前のほうで離すところが見えますからね。そこまで腕がついてくるというか、腕が前に出てくる。そういう感覚の時は右バッターのアウトコース低めにビシビシ決まります。球の勢いがすごくて、力のある球ばっかりで、もう打たれる気がしないんです。関東大会の時はそういう感覚でした。あれは、すべてのバランスが揃って投げられた一球だったのかもしれません」
松坂はできるだけ前でボールを離し、しかもできるだけ強くボールを放ろうとした。それができればストレートのキレは増し、速くなる。そのために左足の使い方を変えた。より力をためこむために、上げた左足を内側にひねり込もうとしたのだ。それが、結果的にはよかったはずの松坂のバランスをわざわざ崩してしまう原因ともなった。
「今までと同じじゃ打たれると思って、じゃあ、何を変えていこうか、何か違ったものを見つけようかというところでいろいろ自分で探して......その結果、やろうとしたことはよかったんですけど、方向は違っていたのかもしれません。『光の小次郎』を全巻読んで、『あぁ、これ、オレと一緒だ』って思って、わけわかんなくなった(笑)。投げれば点を取られるし、毎試合のようにホームランを打たれるし、とにかくボールが真ん中に集まって大事なところでコースに投げ分けることができなかった。あの時は"光るボール"というより、"火を噴くボール"を投げようとしていたんですけどね(笑)」
現状に飽きたらず、"光るボール"を追い求めた松坂の姿を、まるで予言者の如く、水島新司さんが20年も前に描いていた。"水島ワールド"はこうして今も昔も、そしてこれからも、すべての野球人によって受け継がれていくはずだ。
水島さんは『光の小次郎』の冒頭で、この漫画を描く想いを記している。以下はその抜粋である。
野球──
いったいこのゲームの何が男たちをかりたてるのか
記録
勝敗 ルール・・・・それらの中に
ドラマがあり 球のゆくえを追う男たちの
眼の中に人生がある
幾多の男たちが栄光と挫折の中で生き
闘い そして消えていった
今 私は その男たちの姿をかりて 真の
プロ野球のあり方をここに問うものである
水島新司
水島新司さんが漫画という形で遺してくれた「真のプロ野球のあり方」は、今を生きるすべての野球人がそれぞれで思い描き、具現化させるべく尽力しなければならないと思う。
水島先生、天国で懐かしい仲間たちとひとしきり再会を楽しんだら、次は現世の野球人たちの試行錯誤を、ぜひ見守っていて下さい──。