追悼・ストロング小林日本中を熱狂させた猪木との一戦 新日本プロレス、国際プロレスで活躍したストロング小林(本名・小林省三)さんが、昨年12月31日、東京・青梅市内の病院で亡くなった。81歳だった。 訃報が世に広まったのは、1月6日の『東京ス…

追悼・ストロング小林
日本中を熱狂させた猪木との一戦

 新日本プロレス、国際プロレスで活躍したストロング小林(本名・小林省三)さんが、昨年12月31日、東京・青梅市内の病院で亡くなった。81歳だった。

 訃報が世に広まったのは、1月6日の『東京スポーツ(東スポ)』のインターネット記事から。東スポが第一報を伝えたことに、アントニオ猪木との"禁断の一戦"を思い出したファンも多いだろう。



1974年3月19日のプロレス史に残る一戦。場外で猪木(左)にヘッドロックを決める小林

 小林さんは1940年12月25日に東京・本郷で生まれ、太平洋戦争中の3歳時に家族と青梅へ疎開した。戦後の中学時代、街頭テレビで見た力道山の鍛え抜かれた肉体に憧れ、独自に筋力トレーニングに没頭。高校生になってからは、作家・三島由紀夫も会員だった水道橋の「後楽園ジム」に通った。

 卒業後は国鉄に就職し、南武線の「稲城長沼駅」に勤務。転機が訪れたのは1966年秋、25歳の時だった。ボディビル大会に出場する友人の応援に訪れた都内の会場で、設立間もない国際プロレスの吉原功社長からスカウトされ、家族の反対を押しきって入団を決意する。

 身長187cm、体重は100kgを超える体格と、精悍なマスクで将来を嘱望された小林さんは、入団からわずか約9カ月後の1967年7月27日にデビュー。名古屋市の金山体育館で、日本人初の覆面レスラー「覆面太郎」としてリングに上がった。

 翌年1月からは覆面を脱ぎ、同年10月にはイギリスに初の海外武者修行へ。1971年6月には、アメリカで国際プロレス最高峰のタイトル「IWA世界ヘビー級」王座を獲得した。その後、同王座を25回連続で防衛する新記録を樹立するも......1974年2月に国際プロレスを離脱して新日本プロレスに参戦する"事件"が大きな話題を呼んだ。

 そして同年3月19日、当時は「禁断」とされていた猪木との日本人同士のトップ対決が実現する。「力道山vs木村政彦」以来20年ぶりとなる日本人対決に、会場の蔵前国技館には史上最多となる"超満員札止め"の1万6500人が押し寄せた。試合は猪木がジャーマンスープレックスで勝利したものの、「ストロング小林」の存在を満天下に示した。

【新間は3カ月、小林さんの家に通い続けた】

 小林さんが猪木と対戦するために、国際プロレスを離脱した際に"動いた"のが東スポだ。契約違反で訴訟する姿勢を見せた同団体を説得するため、違約金1000万円を支払い、「東スポ所属」としてリングに上げたのだ。プロレスの試合を実現するために、新聞社が選手の身分を保証することは、日本プロレス史上でこの時のみ。プロレス報道を看板としていた東スポにとって、まさに社運をかけた一戦だった。

 この一戦を企画したのは、新日本プロレスの営業本部長だった新間寿だった。

 新間は猪木のマネージャーとして1972年9月に入社。当時のスターレスラーが猪木だけでテレビ中継もなく、新日本は1年間で約1億円の負債を抱えたという。1973年4月、日本プロレスの看板選手だった坂口征二が加入し、NET(現在のテレビ朝日)で中継が始まってからは危機を脱したが、ジャイアント馬場が旗揚げした全日本プロレスの後塵を拝していた。

 打倒・全日本で新間がひらめいた企画が「猪木vs小林」の日本人対決だった。新間は当時のことをこう振り返る。

「力道山先生と木村政彦さん以来、日本人対決はありませんでしたから、私のなかで『これしかない!』と確信しました。当時の私は、『どうにかして馬場さんの全日本を超えたい』としか考えていませんでしたから、馬場さんができないことをやってやろうと。その一心で小林さんの自宅に通いました」

 試合を実現させるべく、新間は小林さんが住む青梅に毎日のように通ったという。交渉は小林さん本人だけでなく、母親も交えた家族ぐるみの話し合いとなった。小林さんは当初、国際を離脱することにうしろ向きだったが、新間の情熱に心が傾き、対戦を了承する。初めて自宅を訪問してから3カ月を要したという。

「小林さんは自宅で5、6匹のマルチーズを飼っていたんです。最初に私が訪問した時は、ひどく吠えられましたが、何度も伺ううちにマルチーズも顔を覚えたのか、最後は私の膝の上で眠るまでになっていましたよ(笑)」

【小林さん「あれは嬉しかった」】

 そんな新間の日参が実った「猪木vs小林」は、息詰まる攻防の連続で歴史的な名勝負となった。新間は「私の人生のなかで一番の試合は、間違いなくこの時の猪木・小林戦です。これほどすさまじい試合はほかにありません」と熱く語った。

 猪木は小林さんの訃報が伝えられた1月6日、各メディアに対して追悼コメントを寄せ、伝説の一戦について「小林選手との一戦は『昭和の巌流島』と呼ばれ、入り切れない程の多くの観衆に観て頂きました。小林選手もこの試合を人生最高の試合と言ってくれ、私も格別な思いがあります。お互い、若くベストな時に勝負が出来た事が走馬灯のように思い出されます。ストロング小林選手、ありがとう」と万感の思いを伝えた。

 小林さんは生前、自身の歴史的な名勝負にどんな思いを抱いていたのか。亡くなる1年前の小林さんの言葉が綴られた『昭和プロレス禁断の闘い「アントニオ猪木対ストロング小林」が火をつけた日本人対決』(河出書房新社)のなかで、小林さんは猪木戦への思いをこう明かしている。

「あの試合の思い出は、いっぱいあるけどね。僕がびっくりしたのは、とにかくあの日、蔵前国技館の客席が超満員になって、いっぱいになったっていうことですね。前座の試合が始まる前に僕の控室にも人が大勢集まって、入り口のガラスが割れたりね。これは後から聞いた話なんだけど、あまりに大勢の人が入ったから、その重みで控室の入り口の反対側にあった水道管にヒビが入って水が噴き出たんですよ。それぐらい、凄い人だったっていうことを一番、思い出しますね」

 プロレスのメインイベンターにとって最高の勲章は、自分の名前でどれだけの観衆を会場に呼べるかどうか。ある意味では、小林さんにとってその試合での観客動員は、勝敗以上に重要だったのかもしれない。さらに小林さんは、同書でこう語っている。

「僕が猪木さんとやったことで蔵前国技館が満員になったからね。あれほどファンが僕に期待しているとは思わなかったし、あれは嬉しかったね」

 新日本プロレスは旗揚げからこの一戦までに、蔵前国技館で3大会を開催したが、いずれも満員にはならなかった。しかし「ストロング小林」が猪木と闘うということにファンは熱狂し、記録的な観客動員が実現したのだ。

 結果、新日本は低迷を脱出。小林さんは腰痛が悪化して1984年に現役生活を引退したが、新日本は全日本を凌駕するまでの団体となり、今年で50周年を迎えた。すべての礎は、あの時の小林さんの決断にあったのだ。同書に遺された言葉に、小林さんのプロレス哲学のすべてが詰まっている。

「僕はただお客さんに喜んでもらいたいと思って試合をしていました」

 多くの人を喜ばせた「ストロング小林」は、永遠にファンのなかで生き続ける。