いまや、日本にサッカーのプロリーグがあるのは当たり前のことである。しかし、その「日常」がない時代もあった。 この「現…
いまや、日本にサッカーのプロリーグがあるのは当たり前のことである。しかし、その「日常」がない時代もあった。
この「現在」をつくりあげた歴史を振り返ることは、「未来」を築くことにつながる。サッカージャーナリスト・大住良之が、Jリーグが日常になった過程を振り返る。
■Jリーグ設立の目的
2022年、Jリーグは30回目のシーズンを迎える。
1988年に日本サッカーリーグ(JSL)の「活性化委員会」で検討が始まって3年、1991年には法人「日本プロサッカーリーグ」が設立されて「Jリーグ」の愛称も決定、翌1992年には最初の公式戦として「ヤマザキナビスコカップ(現在のルヴァンカップ)」が開催された。そして1993年5月15日、東京・国立競技場で開幕戦「ヴェルディ川崎対横浜マリノス」で、日本のサッカーに新しい歴史がスタートするのである。
プロリーグ設立の何よりの目的は、日本代表を再び世界の舞台に送り出すことだった。1968年のメキシコ・オリンピックで銅メダルの快挙を成し遂げて以来、日本代表はすべてのアジア予選で敗れてオリンピックへの出場を逃し、ワールドカップにいたってはいちども出場権を獲得したことはなかった。
■日本サッカーを前進させた「両輪」
Jリーグ誕生以後、その日本代表が6大会連続でワールドカップ出場を果たし、うち3大会でノックアウトステージ進出、4年にいちどのアジアカップでも4回優勝という成績を残してアジアのトップに昇り詰めたという事実を見るだけでも、Jリーグ誕生がいかに日本のサッカーにとって大きな出来事だったかは一目瞭然だ。
「日本サッカーの両輪」と言われたJリーグと2002年ワールドカップの招致成功(韓国との共同開催ではあったが)が相まって、スタジアムなど競技環境もこの30年間に飛躍的に改善され、サッカーは日本国内において野球と並ぶ人気競技となった。そしてJリーグをステップに欧州のトップリーグでプレーする選手が増えることで、少年たちの夢を世界へと広げた。さまざまな問題はかかえつつも、この30年間でのJリーグが成し遂げてきたものの大きさに疑問の余地はない。
■「30年間で約6倍」の驚き
1993年にJリーグは10クラブでスタートした。翌年にはベルマーレ平塚(現在の湘南ベルマーレ)とジュビロ磐田が、さらに1995年にはセレッソ大阪と柏レイソルが加盟し、またたく間にチーム数を増やすなかで、スタート当初の「熱狂」は冷め、バブル経済の崩壊もあって各クラブは現実的な経営を迫られた。しかしそうした社会状況でも、新たに加盟を望む団体、地域は引きも切らなかった。
1999年には2部(J2)が誕生、2014年には3部(J3)が生まれた。当初の10クラブは1府7県に分布するだけだった。しかし新たにいわきFC(福島県)がJ3昇格を果たした2022年、「Jクラブ」はJ1からJ3を合わせると58クラブ、その所在地は40の都道府県にわたっている。
Jリーグは、川淵三郎チェアマン時代の1996年に理念を実現するための「百年構想」キャンペーンを始めたが、二代目の鈴木昌チェアマンは、就任時の2002年に「100クラブにしたい」という夢を語った。J1とJ2を合わせたクラブ数がようやく28になった時代である。「百年構想」も「100クラブ」も、その言葉を聞いたころには「遠い夢」のように思われた。しかしいま、「30年間で約6倍」という数字を見れば、実現の可能性は十二分にあるように思える。
何よりすごいのは、関東から東海、近畿を経て中国までのいわば「東海道と山陽道」にしかなかったJリーグクラブが、いまや北は北海道から南は沖縄まで、40もの都道府県に広がっていることだ。現時点では7県が「空白地帯」だが、そのうち三重県にはカズ(三浦知良)の移籍で話題になった鈴鹿ポイントゲッターズと桑名市の総合スポーツクラブであるヴィアティン三重、そして奈良県には奈良クラブという「百年構想クラブ(準会員に相当)」があり、いずれもJ3のすぐ下のJFLに所属していて、ごく近い将来にも昇格が期待されている。