サッカーは、いろいろなことを教えてくれる。世界をまたにかける蹴球放浪家・後藤健生であるが、まだ英語もおぼつかない頃、絶…

 サッカーは、いろいろなことを教えてくれる。世界をまたにかける蹴球放浪家・後藤健生であるが、まだ英語もおぼつかない頃、絶好の教科書になったのはサッカーだった。そして、素晴らしいフットボール・ライターが、「師」となったのだ。

■まだ参加8か国だった1992年の欧州選手権

 1992年の6月にスウェーデンで第9回ヨーロッパ選手権が開かれました。今で言う「EURO」ですね。1988年のフランス大会から「EURO」という大会名も使われていましたが、当時は「ヨーロッパ選手権」の方が一般的だったような記憶があります。

 当時は、ヨーロッパ・サッカー連盟(UEFA)がFIFAのジョアン・アヴェランジェ会長を商業主義的だと盛んに批判していた時代であり、ヨーロッパ選手権もまだ8か国だけが参加する(今から思えば)大変に小規模な大会でした。

 スウェーデンという国も人口約1000万人の小さな国でした(面積は日本よりも大きいのですが)。それに、スタジアムも決勝の舞台となったヨーテボリのウレヴィでも4万人弱程度のもの。

 なにしろ、大会のスローガンが「スモール・イズ・ビューティフル」だったのですから。

 わずか30年ほど前のことなのですが、遠い昔のことのように思えます。

 大会直前にユーゴスラビア連邦の構成共和国間で内戦が勃発。国連の制裁決議に基づいて参加資格が取り消され、代わりに予選でユーゴスラビアと同グループで2位だったデンマークが招待されることになり、すでに休暇に入っていた選手たちが急遽招集されて参加。そのデンマークがあれよあれよという間に勝ち進み、準決勝でオランダにPK勝ちすると、決勝戦ではドイツに2対0で完勝して優勝を遂げてしまいました。

 現在、レスター・シティーのゴールを守っているカスパー・シュマイケルの父親のペーター・シュマイケルがGKで、ブライアン・ラウドルップがトップでした。

 ちなみに、出場資格を停止されたユーゴスラビア代表の監督はイビツァ・オシム。出場できていれば、優勝も狙えたはずです。

■思いがけない「師」との出会い

 さて、そのスウェーデンの大会での思い出の一つが記者会見の場でブライアン・グランヴィル先生と会話したことでした。

 ブライアン・グランヴィル(Brian Glanville)は、1950年代後半から英国の高級紙『ザ・タイムズ』やサッカー専門誌『ワールド・サッカー』などでサッカー評論を書き続けた世界最高のフットボール・ライターとも言われる人物です。

 僕は、中学生になってサッカーを初めてしばらくたった頃に日本の書店で『ワールド・サッカー』を見つけ、その後は定期購読を申し込んでずっと読んでいました。英国の雑誌ですが、イングランドやスコットランドのことではなく、世界のサッカーを扱っている雑誌でした。今とは違って海外のサッカーについての情報がほとんど入ってこない時代ですが、この雑誌を読んでいれば最低限の知識は得られるというわけです。

 たとえば、オランダのアヤックスというチームのエースでJOHAN CRUYFFという名前の凄い選手がいるということも、この雑誌で知りました(ただし、この「CRUYFF」という名前をどう発音すればいいのかは謎のままでしたが……)。

■難解だったグランヴィル氏の文章

 その『ワールド・サッカー』のメイン・ライターがブライアン・グランヴィルとエリック・バッティ(Eric Batty)の2人でした。

 なにしろ、こちらはまだ中学生です。英語力などありませんから記事を読むのも大変でした。

 ただ、エリック・バッティ氏の記事はとても平易な文章でしたから、分からない単語が出てきた時に英和辞典で調べるだけでもすぐに理解できました。

 一方、ブライアン・グランヴィル氏の文章は大変に難解でした。なにしろ、小説や戯曲なども書いているという人で、かなり文学的な表現が使われていますし、比喩も多用されます。それに、文法的にも難しいのです。

 辞書を引きながらなんとか1回読んでみますが、ほとんど内容は理解できません。二度、三度と読んでようやく何を言っているのか分かってくるのですが、それでも微妙な言い回しなどでは、グランヴィル氏が何を言いたいのか完全には理解できません。

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