向正面から世界が見える~大相撲・外国人力士物語第10回:白鵬(3)(1)はこちら>> (2)はこちら>>幕内優勝は史上最多の45回と、まさに角界屈指の"大横綱"となった白鵬。その偉大な横綱が、2021年名古屋場所(7月場…



向正面から世界が見える~
大相撲・外国人力士物語
第10回:白鵬(3)

(1)はこちら>> (2)はこちら>>

幕内優勝は史上最多の45回と、まさに角界屈指の"大横綱"となった白鵬。その偉大な横綱が、2021年名古屋場所(7月場所)を最後に現役から退いた。現在は、間垣親方として後進の指導などにあたり、日々奔走している。そんななか、自らの相撲人生について改めて振り返った――。

        ◆        ◆        ◆

 私が尊敬する人物は、大鵬関の他に、もう1人います。昭和の時代、「角聖」と呼ばれた大横綱・双葉山関です。

 1年に2場所しか本場所がない時代、優勝12回。さらに、昭和11年(1936年)~14年(1939年)にかけては、69連勝という不滅の記録を残した伝説の方でもあります。

 2010年、春場所(3月場所)、夏場所(5月場所)、名古屋場所(7月場所)に続いて、秋場所(9月場所)も全勝優勝を果たした私は、連勝記録を「62」まで伸ばしました。

 こうして臨んだ九州場所(11月場所)は、初日、栃ノ心から白星を挙げて、63連勝。2日目は、稀勢の里(現・二所ノ関親方)戦です。

 初めて稀勢の里と対戦したのは、彼が本名の「萩原」で取っていた幕下時代(2003年秋場所)。幕下同士の相撲なのに、土俵に上がると、たくさんの報道陣がいるのが見えました。スピード出世中の萩原は、それだけ注目されていたわけなのですが、取り直しの末、私が勝った。

「あ、なんかすごいコに勝っちゃった!」

 そんなイメージでしたが、その後も決して取りやすいタイプではなかったですね。

 64連勝をかけた一番は、相撲の流れのなかで、私は一瞬「勝った!」と思ったんですね。それが、結果的に黒星につながりました。

 私は土俵下まで飛ばされ、頭が真っ白になるなかで浮かんだ言葉がありました。

「これが負けか......」

 その晩は、一気に疲れが出て、翌朝は稽古場に降りたくない気持ちでした。でも、一念発起し、稽古場に向かうと、雲ひとつない青空が広がっていました。

 双葉山関の69連勝には届かなかった。ですが、それは一生懸命やった結果。そんなことに関係なく、地球は回り、また新しい1日が始まっている。私の気持ちは、吹っ切れました。

 2012年秋場所後、日馬富士関が第70代横綱に昇進したことで、私のひとり横綱は解消されました。そして、翌年は朝青龍関の優勝回数(25回)を上回って、27回まで伸ばすこともできたのです。



自らの土俵人生を改めて振り返る白鵬(現・間垣親方)

 私の夢のひとつに、多くの子どもたちに相撲を広めたいということがあります。2010年から始めた少年相撲大会『白鵬杯』は、2013年2月、3回目にして初めて東京(有明コロシアム)で開催されました。

 この時、兄弟で参加してくれたのが、大鵬関の3人のお孫さんたち。来年(2022年)初場所で、このなかのひとり、三男・王鵬が新入幕を果たしますが、次男(納谷)、四男(夢道鵬)も、幕下の土俵で奮闘中です。

 第1回大会に出場した選手で、幕内力士として実際に対戦したのが、阿武咲。(団体戦で)優勝して私がメダルをかけた少年と、数年後に対戦して、2020年春場所では押し出しで私が敗れたんです。

 悔しいというより、自分の子どもに負けたような感覚でしょうか? このように、"新しい芽"は次々と成長してきています。

 引退後は、親方として若い力士を育てたい......というのは、自然に芽生えた気持ちです。

 日本相撲協会の親方になるためには、「日本人でなければいけない」という規定があります。外国出身力士の親方は、ハワイ出身の高見山関(元・東関親方)、武蔵丸関(現・武蔵川親方)、モンゴル出身ですと、旭天鵬関がいらっしゃいますが、全員、帰化手続きを取って、日本人になったうえで親方となり、相撲部屋を構えています。

 旭天鵬関が将来を考えて帰化しようとした時、モンゴル国内ではバッシングが起こったことがありました。モンゴル人にとって、国籍を変えることはそれほど重要なことで、国民の大きな関心事であることは、私も理解していました。

 2018年に亡くなったモンゴルの父とも、その件に関しては話し合いました。

 旭天鵬関同様、私も国籍はどうあれ、モンゴル出身というスピリッツは変わらないと考えていました。私が、日本人「白鵬翔」になったことが発表されたのは、2019年9月のことです。

 この年は直前の名古屋場所限りで、宮城野部屋所属で私の髷をずっと結ってくださった、床山の床蜂さんが定年退職されました。髷を結っていただく時間は、私にとって本当にリラックスできましたし、大先輩にもかかわらず冗談を言い合う仲でもありました。

 何気ない会話の中から、学ぶことも多かったですね。本当にたくさんの方に支えられてきたのだなぁ、と改めて実感しています。

 今振り返ってみると、私の相撲人生は5つの時代に分けられると思います。

 第1期が、若手でこれから大関、横綱を狙おうという時。
 第2期は、横綱・朝青龍関と横綱を張っていた時。
 第3期は、ひとり横綱でいた時。
 第4期は、日馬富士関、鶴竜関(現・鶴竜親方)、稀勢の里関と4人で横綱を張っていた時。
 そして最後が、またひとり横綱に戻り、若手と対戦して、後輩の照ノ富士が横綱になった時期。

 21年間の土俵人生はアッという間だったような気がしますが、照ノ富士という後輩横綱が誕生したことは、本当にうれしいことです。

 そして、どの時代もそうなのですが、私は土俵では強く、土俵の外ではみんなに優しい人間でありたいと思っていました。

 土俵上は戦いの場ですから、優しさはいらない。土俵の上に立ったら、鬼に徹しなければ......。優しさと厳しさを合わせ持つ、2人の白鵬が心のなかにいたんです。なかなか理解してもらえないかもしれませんけどね。

 今年(2021年)の夏は、東京オリンピックが行なわれました。

 4~5年前から、今後の目標を問われるたびに、「2020年の東京オリンピックまで、現役で相撲を取ること」と言い続けてきました。それは、かつて父が東京オリンピックに出場したこともありますが、現役力士として何らかの形でオリンピックに関わりたいという夢があったからです。

 コロナ禍でオリンピックは1年の延期が決まり、開会式直前の7月18日、私は現役力士としての幕を閉じました。夢は叶わなかったけれど、父も「ダヴァ、よくがんばったな!」と言ってくれていると信じています。

 すでに私は、親方としての人生が始まっています。相撲協会の一員として、与えられた仕事だけではなく、自分がやれることは何でもやっていきたい。そして、元気のいい力士を育てていきたいという夢もあります。

 モンゴルから日本に来て、相撲と出会えて本当によかった。私は心から相撲を愛しています。

白鵬 翔(はくほう・しょう)
第69代横綱。1985年3月11日生まれ。モンゴル出身。幕内優勝45回を誇る大横綱。2019年、日本国籍を取得。2021年9月、現役引退を発表、年寄・間垣襲名。