どんな選手にも、スパイクを脱ぐ時はやってくる。だが、偉大な選手には、それなりのラストステージが用意されてしかるべきだ。…
どんな選手にも、スパイクを脱ぐ時はやってくる。だが、偉大な選手には、それなりのラストステージが用意されてしかるべきだ。「アジアの壁」の日本代表ラストマッチに蹴球放浪家・後藤健生の心が冷え込んだのは、冷たい雨だけが理由ではない
■ブラジルに奪われた領土の一部で
井原正巳(現、柏レイソル・ヘッドコーチ)は「アジアの壁」と呼ばれた1990年代の日本を代表するDFでした。日本代表での出場試合数は122。当時の最多キャップ数の記録でした。
その井原の日本代表でのキャリアは実に悲しい形で終わってしまいました。
舞台はパラグアイのペドロ・フアン・カバジェロ市のエスタディオ・リオ・パラピティという、2万5000人収容の小さなスタジアムでした。気温は11度で、冷たい雨が降りしきる夜のことでした。
ペドロ・フアン・カバジェロという町はパラグアイの東北部にあります。パラグアイという国自体、南米大陸の小さな内陸国ですが、そのパラグアイの中でもペドロ・フアン・カバジェロは首都アスンシオンから遠く離れた小さな(人口11万人)町です。
ペドロ・フアン・カバジェロ市はブラジルとの国境にあり、ブラジル側の都市ポンタ・ポランと一体になっています。もっと正確に言えば、もともとこの辺りはすべてパラグアイ領土だったのですが、19世紀にあった三国同盟戦争に敗れたパラグアイは広大な領土を失い、ポンタ・ポラン市はブラジルの領土になってしまったのです。なにしろ、南米の大国ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイと戦争したのですから、パラグアイに勝ち目はなく、領土の4分の1を失ってしまったのです。
そして、その後ポンタ・ポランの西のパラグアイ領側に新しくペドロ・フアン・カバジェロ市が建設されたのです。
■パラグアイの首都から遠隔の地へ
1999年、日本代表は招待されてコパ・アメリカに出場しました。当時の日本代表監督のフィリップ・トルシエは2002年の日韓ワールドカップに向けて若手主体のチームを作ろうと考えていました。しかし、同年6月から7月にかけて開催されるコパ・アメリカはU-22代表が出場するシドニー・オリンピック予選と日程が重なっていたため、コパ・アメリカにはベテラン選手が招集されていました。
僕も、6月26日に東京の国立競技場でオリンピック予選のネパール戦を見てからすぐに地球の裏側のアスンシオンでの開幕戦、日本対ペルー戦に駆け付けました。
ペルーとの初戦(大会の開幕戦)では前半7分にブラジル出身の呂比須ワグナーが先制ゴールを決めて南米の人たちを驚かせましたが、その後、点の取り合いとなって2対3で敗れます。そして、パラグアイとの第2戦では4失点して0対4と完敗してしまいます。
当時の日本代表には、遠く南米大陸まで遠征して南米の強豪国と戦えるだけの力がなかったということでしょう。
そして、最終戦は2連敗の日本と1分1敗のボリビアが対戦することになりました。
開催国のパラグアイと一緒だったA組は、最初の2日間は首都アスンシオンにあるパラグアイ最大のスタジアム、エスタディオ・デフェンソーレス・デル・チャコ(4万2000人収容)で行われたのですが、グループ最終日の日本対ボリビアとパラグアイ対ペルーの2試合はどういうわけか(おそらく、パラグアイ国内の政治的な事情なのでしょう)ペドロ・フアン・カバジェロという遠隔の都市で行われることになっていたのです。