「THE ANSWER the Best Stories of 2021」、10年目の夏に天国の背番号3へ明かした想い …
「THE ANSWER the Best Stories of 2021」、10年目の夏に天国の背番号3へ明かした想い
東京五輪の開催で盛り上がった2021年のスポーツ界。「THE ANSWER」は多くのアスリートや関係者らを取材し、記事を配信したが、その中から特に反響を集めた人気コンテンツを厳選。「THE ANSWER the Best Stories of 2021」と題し、改めて掲載する。今回は連載「松田直樹を忘れない 天国の背番号3への手紙」から、横浜FC中村俊輔が登場。松田さんは2011年の夏、所属していた松本山雅の練習中に急性心筋梗塞で倒れ、8月4日、帰らぬ人に。34歳の若さだった。早すぎる別れから10年。横浜F・マリノスでともに戦った希代のファンタジスタが想いを明かした。(構成=藤井 雅彦)
◇ ◇ ◇
中村俊輔が横浜マリノスに加入したのは1997年のこと。
その前年の1996年にはアトランタ五輪が行われ、川口能活や松田直樹らを擁する日本が優勝候補のブラジルを破って「マイアミの奇跡」を成し遂げた。
桐光学園を高校サッカー選手権準優勝に導くなど、その名を全国に轟かせていた中村だが、住む世界がまったく違う先輩たちとすぐに対等な関係を築けるはずがなかった。
「僕の1つ上の年齢の選手がいなくて、2つ上の先輩がマツさん、さらにその1つ上に川口能活さんもいました。比較的身近なはずの存在が日本代表や五輪代表といった肩書きを持っていて、自分にとっては雲の上の人たちばかり。だからプロになってすぐマツさんと頻繁にコミュニケーションを取っていた記憶はありません」
それでも中村は実力と才能を見込まれ、ルーキーイヤーから名門クラブの一員としてピッチに立つ。
さらなるレベルアップを求めてパーソナルトレーナーの門を叩いた。
「能活さんの紹介でパーソナルトレーナーに指導を受けるようになって、そこにマツさんもいました。僕自身はプロ2年目にレギュラーとして試合に出る機会が増えて、その頃からマツさんに声をかけてもらえるようになって。3年目に入った頃にはプライベートでも食事に連れて行ってもらい、いろいろなことを教わりました」
酒を飲まない中村は運転席に、そして松田直樹は助手席にドカッと腰掛ける。
横浜から都内へと車を走らせ、今まで知らなかった世界へ飛び込んでいく。
「マツさんに『もっと世界を広げたほうがいいぞ』と言われたことを覚えています。当時の僕はとにかくサッカーのことしか考えていなくて、家とグラウンドの行き来しかしていなかった。マツさんからすると、つまらない人間に見えたのかもしれない。僕にサッカー以外の世界を見せて、教えてくれたのはマツさんです。その経験によって社交性を学ぶことができて、人間としての深さなどを意識できるようになりました。それにマツさんが檄を飛ばせばチームの雰囲気が引き締まるし、ピッチ内外で存在感は絶大でした」
「明日、みんな金髪で集合な」の言葉で人生初めて茶髪にした日
中村がプロ5年目の2001年、横浜F・マリノスは降格の危機に瀕した。
日産自動車サッカーの系譜を受け継ぎ、名誉あるJリーグ開幕戦をヴェルディ川崎と戦った。歴史と伝統を兼ね備えた名門クラブをセカンドディビジョンに落とすわけにはいかない。
立ち上がったのは松田だった。
「ある日、マツさんが突然『明日、みんな金髪で集合な』と言い出して(笑)。苦しい状況から抜け出すために一体感を強調したかったのでしょう。でも僕は人生で一度も髪の毛を染めたことがなくて、それでもどうにか頑張って茶色にして翌日グラウンドに行きました。そうしたらオムさん(小村徳男)やアキさん(遠藤彰弘)は本当に金髪になっていたけど、(上野)良治さんは黒のまま。自分は茶色だし、結果的に一体感どころか余計バラバラになった(笑)。でもマツさんがそういった行動を起こしてくれなかったら降格していたかもしれません」
中村は同じ2001年に松田からもらった言葉があるという。
すでに日本代表でも存在感を示し始めていたが、このシーズンはチームの勝利になかなか貢献できていないもどかしさがあった。
叱咤されることを覚悟したが、飛んできたのは思いがけない言葉だった。
「自分自身、少し傲慢なプレーをしていたという自覚があって、ちょうどそのタイミングで城さんとマツさんに呼ばれたんです。怒られるかなと思って緊張していたら、『お前がチームの中心だから。ボールを集めるから好きにやっていいぞ』って。自分を信頼してくれていることが分かって、すごくうれしかった」
松田はいつも歯に衣着せぬ物言いで自身の思いをぶつけてくる男だった。どちらかといえば寡黙な姿勢でサッカーに打ち込む中村にとって、その姿はまさしく頼れる兄貴分。
「マツさんのように『オレたちは弱いんだから弱いなりのサッカーをするぞ!』と堂々と言える選手はなかなかいない。弱腰のプレーをするのではなく、自分たちができることを100%やるという意味でした。そうやって言葉を選ばずストレートに伝えられるところも尊敬しています」
いつも面と向かって直接伝えてくるタイプの松田が、あえて中村には直接話さなかった出来事がある。
忘れもしない、2002年の日韓W杯メンバー発表直後の出来事だ。
「マツさんが選出会見で、同じマリノスから候補に入っていたけど最終メンバーに選ばれなかった選手の名前を一人ずつ挙げてくれました。しかも少し怒っているというか、納得いかないといった口調で。自分ひとりだけが入っていることを申し訳なさそうにしていて、悲しくて辛そうな様子だった。演じている部分があったのかもしれないけれど、選ばれなかった選手の気持ちを汲んでくれたことに感謝です。直接の会話はなかったけど、あの会見の様子だけで救われました」
2002年夏にイタリアのレッジーナへ海外挑戦した中村。その後、スコットランドのセルティックとスペインのエスパニョールでキャリアを重ね、2010年に横浜F・マリノスに復帰することを決意した。
今、天国に送る言葉「焼肉連れていってください」
しかし松田はその2010年限りで横浜F・マリノスを契約満了となり、2011年からは当時JFL所属の松本山雅FCへ。
新たなスタートを切った矢先の8月2日、松本市内のグラウンドで倒れてしまう。
「あの日のことは鮮明に覚えています。午前中の練習が終わってすぐにマツさんが倒れたという話を聞いて、すぐに車で松本へ向かいました。病院に行った後、佐藤由紀彦さんや城さんとマツさんが住んでいた部屋に行ったんです。そうしたら意外なことに、明日の練習の時間や場所などをカレンダーに細かく書いていて。まさか自分の部屋に入られるとは思っていなかったはずだから、恥ずかしい思いをさせてしまいました」
倒れた2日後の2011年8月4日、松田は帰らぬ人となった。
数日後、葬儀に参列しても実感が湧かない。唐突に携帯電話が鳴った時は、松田の登録名が表記される気がしてしまう。
「棺に入っているマツさんは笑っていました。僕が海外でプレーしていた時期はあまり会っていなかったこともあって、今もそういう感覚なんです。だから突然、『シュン、メシに行くぞ』って電話がかかってくるような気がしてならない」
以降はことあるごとに松田の記憶や思い出話に花を咲かせてきた。湿っぽくなるのかと思いきや、いつも笑い話で盛り上がるという。
松田はそういう人間だった。
「今もそうだけど、マツさんの話をしても悲しい雰囲気にはならない。それは自分も含めて、それぞれの人に残した影響が大きいからであって、記憶の中に生き続けているから。みんながいる前でよく『こいつだけはサッカーで尊敬できるんだ』と言われました。僕はマツさんにたくさんのことを教わったけれど、もしマツさんも僕のサッカー観や生き方から何かを得てくれていたなら光栄です」
そんな中村が十周忌に松田へ送るメッセージとは。
ほんの少しだけ間を取って考えたが、思いついたのはいつも一緒に食べていたあの味だった。
「マツさんは僕に対してダメ出しすることが一切なかったので、アドバイスをくださいと言っても『お前、この年齢まで現役を続けていてすごいよ』みたいなことしか言わないでしょうね。それが分かっているから、ただマツさんと一緒にご飯が食べたい。だからメッセージは『焼肉連れていってください』です」(藤井雅彦 / Masahiko Fujii)