12.26国立代々木競技場第2体育館で“カリスマ”佐々木大輔の持つDDT UNIVERSAL王座への挑戦が決定した高梨将弘。これまで盛り立て役として他の選手のサブ的役割が多かった。だがそのテクニックは評価されDDTフ…

12.26国立代々木競技場第2体育館で“カリスマ”佐々木大輔の持つDDT UNIVERSAL王座への挑戦が決定した高梨将弘。これまで盛り立て役として他の選手のサブ的役割が多かった。だがそのテクニックは評価されDDTファンから高い支持を集めている。高梨将弘の軌跡を全3回に分け振り返る。

――高梨選手は、小さい頃どのような子供でしたか?

高梨将弘(以下 高梨):全く活発ではない子供でした。かといって本が好きでもなかった。僕は1983年生まれ、世代的にファミコンブームでゲームをやっていた記憶はあります。

――あまり活発ではないとのことですが、学生時代なにかスポーツはしていましたか?

高梨:していないですね。体育の時間も嫌いでしたから(苦笑)。

――そんな高梨選手がプロレスに興味を持ったキッカケを教えてください。

高梨:当時は土曜日の夕方、新日本プロレスが地上波放送していました。プロレス特番も子供が見られる時間帯に放送したり、バラエティー番組にレスラーが出演していたりとテレビで知ることが多かったですね。

――テレビでプロレスに触れて高梨選手の心に刺さったレスラーやプロレススタイルはありましたか?

高梨:周りの友達は武藤敬司選手や大仁田厚選手が刺さっていましたね。ただ僕の場合、プロレスラー個人よりもプロレス業界、「レスラーという個性を持った人たちの集合体」に惹かれました。例えば野球はセ・リーグとパ・リーグがありますが、打つ投げる等選手のプレースタイルに大きな違いはないと思います。でもプロレスの場合、スタイルも違えばルールも違う。ある団体では反則だったものが、別の団体では反則にならない。そして広くプロレスを見るようになったら女子プロレスもあった。当時オリンピックなどで女性が活躍している競技はありますが、プロスポーツで女子があるのが珍しかった。

プロレスに興味を持ち、さまざまなプロレスを観るようになったら「国外の選手がいっぱい出場する団体があるの?」「ロープに振らないプロレスがあるの?」「ロープから飛ぶプロレスがあるの?」と全然違うものが同じ「プロレス」という枠の中で行われ、全てが同じ雑誌に統一されて載っている。各団体がお互いのファイトスタイルを主張しあったり、特には交流戦が行われたり、とにかくいろいろな登場人物がいて子供ながらに魅了されました。

――それは何歳くらいでしたか?

高梨:中学生です。小学生の時は漠然とプロレスを見ていました。中学・高校では生活の中心がプロレスでしたね。当時、週刊プロレスと週刊ゴングの発売日が木曜日。それを朝イチで買いに行きました。今だとネットで試合結果が分かりますが、学生時代はネットがなかった。自分で情報を求めない限り手に入りません。ですからビッグマッチの翌日はスポーツ紙の朝刊を買いに行きました。常にプロレスのことを考えていた気がします。

――高梨選手は千葉県市川市出身。都内のビッグマッチや地元で行われる大会に学生時代から足を運んでいましたか?

高梨:小学生の頃から父に連れられて地元の大会を観戦していました。僕の実家は土建屋なので地元の繋がりが強く、千葉で大会が行われる時にチケットを頂いたりして「プロレスすげぇ〜」と観戦していました。自分のお小遣いからチケットを購入し観戦するようになったのは高校生から。中学生の時はお金の掛からない新日本プロレスの餅つき大会に参加しましたね(苦笑)。

僕は後楽園ホールが近いからという理由で水道橋にある高校に進学しました。進学の理由を中学の先生や両親に言えませんでしたけど(笑)。DDTにもU-18チケットという学生割引サービスがありますが、高校時代は毎日のように学生割引を利用して後楽園ホールのバルコニーでプロレス観戦していました。

――学生時代、スポーツ経験がなかった高梨選手がプロレスラーになろうと思ったキッカケは何ですか?

高梨:部活はやっていなくても、ミスター髙橋さんの「プロレスラーになる方法」等、レスラーになるための練習方法が書いてある本を読んで「レスラーってこんなトレーニングをしているんだ〜」と思いながら鍛えていました。もちろんレスラーになる気はなかったです(苦笑)。

ただ高校2年生の時、闘龍門が日本に逆上陸して「闘龍門ジャパン」ができました。そしてプロレスラー養成学校を作り、応募要項に「身長・体重の制限なし」とありました。高校卒業後の進路を「実家の土建屋にお世話になろうかな〜」と漠然と考えていた時に届いた情報です。あの頃、新日本プロレスや全日本プロレスは身長制限が180cm以上でしたが、インディー団体の選手は180cm以下の選手が増え始めていました。「これは自分もレスラーになれるのではないか」と思いましたね。そこで高校3年の時、闘龍門のプロレスラー養成学校に応募したんです。

入団テストは1,2月の寒い時期、場所は後楽園ホール。高校にウエイトトレーニングの機材が揃っていたので、それを使って身体作りをしてから闘龍門の入団テストに向かいました。「プロレスラー養成学校」なので身体測定があると思ったら面談のみで戸惑いましたけど(苦笑)。

――面談のみだったのですね(笑)。そこで合格してメキシコに渡るのでしょうか?

高梨:いいえ、4月から闘龍門の神戸道場で半年間練習をしてからメキシコに行きます。そして現地でデビュー。周りがデビューする中、なかなか自分だけデビューできないまま1年が過ぎました。

最初20人以上いた同期も辞めたり夜逃げしたりでメキシコに行く頃には10人前後。ふと「来年、再来年も同じように10人前後のレスラーがメキシコでデビューしたら、闘龍門という団体で自分は埋もれてしまう…」と思いました。同じ9期生にバラモン兄弟、Kagetora、ラッセ、野橋太郎、石森太二、南野タケシ、卍丸、Ken45°がいました。ずるい話ですが「闘龍門でデビューする前に、他の団体で1から練習生としてスタートした方がいいのではないか」と考えました。

その頃、7期生の大鷲透さんと8期生の近藤修司さんに可愛がって頂きました。辞める時にキチンとお話ししないといけないと思いました。大鷲さんは大相撲からレスラーになった方で年齢も7歳離れています。その大鷲さんに「今までお世話になりました。プロレスを辞めようと思います」と挨拶に行った時、全てを見抜かれ「高梨、辞めてすぐに他団体に行くことは業界の仁義に反することだから1年間はバイトなりして過ごせ。そしたら他のプロレス団体を紹介してやる。たまにお前の練習も見てやるから」と。それで闘龍門を辞めた後、大鷲さんにアニマル浜口ジムでときどき練習を見てもらったりご飯をご馳走になったりしました。僕はその間スポーツジムでインストラクターをしながら働いていました。

1年が過ぎた頃、大鷲さんは闘龍門で同期の大家健さんを紹介してくれました。大家さんは闘龍門を練習生で辞めてDDTに入団しています。僕と同じ境遇の大家さん、そして大鷲さんと僕3人で会いしました。大家さんから「高木三四郎社長に事情は説明しておく。キチンとテストを受けて入団すればレスラーとしてデビューできるよ」と言われました。それで入団テストを受けて2003年4月DDTに入団しました。

<第2回に続く>

<インフォメーション>
12.26東京・国立代々木競技場 第二体育館「NEVER MIND 2021 in Yoyogi」にて高梨将弘選手が佐々木大輔選手の持つDDT UNIVERSAL王座に挑戦します。
タイトルを賭けた2人の戦いが行われるのは2018年11月に後楽園ホールで行われたKO-D無差別級王座戦以来、3年ぶり。その時敗れている高梨選手は雪辱を果たせるか!詳細はDDTプロレスリング公式サイトをご覧ください
また試合は動画配信サービスWRESTLE UNIVERSEで生配信されます

高梨将弘Twitter
DDTプロレスリング Twitter

取材・文/大楽 聡詞
写真提供/DDTプロレスリング