日本代表「私のベストゲーム」(4)駒野友一編(前編)これまでに数多くの選手たちが日本代表に選出され、W杯やW杯予選、アジ…
日本代表「私のベストゲーム」(4)
駒野友一編(前編)
これまでに数多くの選手たちが日本代表に選出され、W杯やW杯予選、アジアカップやコンフェデレーションズカップなど、さまざまな舞台で活躍してきた。そんな彼らにとって、自らの「ベストゲーム」とはどの試合だったのか。時を経て今、改めて聞いてみた――。
それは、駒野友一にとって、年代別も含めると、4度目の世界大会だった。
過去に経験した3大会すべてに共通するのは、グループリーグ初戦に敗れていたこと。そして、決勝トーナメントに進出できなかったことである。
だからこそ、その日の歓喜は駒野の記憶に特別なものとして、すでに10年以上が経過した今もはっきりと刻まれている。
2010年6月14日、南アフリカ・ブルームフォンテーン。ワールドカップ南アフリカ大会のグループリーグ第1戦で、日本はカメルーンに勝利した。
「僕は(年代別日本代表で)ワールドユース選手権(2001年)やアテネ五輪(2004年)を経験して、いつも初戦を落としていた。そうなると、2戦目、3戦目は追い上げないといけない立場になってしまい、厳しい戦いになる。
短期決戦では、初戦がすごく大事なのは誰もがわかっていたことですけど、それまでの日本代表の流れという意味でも、(大会前の)親善試合で勝てていなかったなかでの初戦でしたから、その勝ち点3は、すごく大きなものだったと思います」
4度目の世界挑戦にして、初めて味わう「初戦勝利」。駒野が自身のベストゲームに選ぶ一戦である。

駒野友一が日本代表ベストゲームに選んだ南アフリカW杯のカメルーン戦
ワールドカップ本番を目前に控えた日本代表は当時、ドン底状態にあったと言ってもいい。
壮行試合として行なわれた国内最後の親善試合では、韓国に0-2と完敗。ヨーロッパでの事前キャンプで行なわれた親善試合でも、イングランドに1-2、コートジボワールに0-2と、連敗を喫していた。
「ずっと勝利から遠ざかっていたので、チーム自体も雰囲気が......悪いとまではいかないにしても、モヤモヤしたものはありました。選手も『これで初戦、大丈夫なのか?』って思っている部分があったと思います」
そんな折、チーム内の空気を変えたのは、選手ミーティングで田中マルクス闘莉王が口にした言葉だった。駒野はそう記憶している。
オレたちは下手くそなんだから、下手くそなりのプレーをしなければ勝てないぞ。相手よりも走って、戦って、そういうプレーをしなければいけないんだ――。
「僕もその言葉は印象に残っていますし、みんなにも響いたと思います。そこで、自分たちは日本人らしいサッカーをしなければいけないんだと思い知らされ、みんなの気持ちもすっきりした感じがあったと思います」
チームが勢いに乗るには、とにかく初戦が重要。そこで、結果を手にするための入念な準備が進められた。
「引き分けでもいい、ではなく、やっぱり(初戦で)勝利がなければ、決勝トーナメント進出は難しい。初戦に向けて、勝つことだけに焦点を合わせてやっていました」
そして、迎えたカメルーン戦。晴れの舞台で、駒野は右サイドバックの先発メンバーに名を連ねた。
「(4年前に)ドイツのワールドカップに出ていた分、リラックスして試合に入れました。相手がアフリカ勢ということで、フィジカルで絶対に負けない。球際で競り勝つ。そういうところは明確にして、試合に臨めたと思います」
試合は、序盤から動きのない展開で進んだ。試合後に岡田武史監督が「やり合うリズムになると、カメルーンは怖い」との分析を明かしたように、それは日本が望んだものでもあった。
駒野も本来は精度の高いクロスを武器とする、攻撃が得意なサイドバックである。
「相手が前がかりになってきた時にはスキを突いて、カウンターで攻め上がったりっていうところは、考えながらやっていました」
とはいえ、こう着状態が続けば、自然とプレーは慎重になる。「大会前にシステムを4-1-4-1というか、4-3-3の形に変えてからは、どちらかというと後ろ重心になることが多かった」と、駒野は当時の戦い方を振り返る。
なかなか攻撃の糸口を見出せずに苦労はしたが、「攻撃する時間が短くなっても、チーム全体として、焦らずに試合を進めることができていました」。
すると、後半勝負も辞さない覚悟だった日本に、千載一遇のチャンスが巡ってくる。
前半に訪れた唯一の決定機を逃さなかったのは、本田圭佑だ。前半39分、フリーでクロスを受けると、左足で落ち着いてシュートを流し込んだ。日本ベンチ前には、駆け寄ってきた殊勲の背番号18を中心に、控えメンバーも含めた歓喜の輪が広がった。
「点をとれてすごくうれしかったのはもちろんですが、ああやってみんなで喜べたのは、チームがひとつになっていたからだと思います」
先制後も、はやるカメルーンの機先を制するかのように、日本は落ち着いて試合を進めた。
「1点をとれたことで、自分たちには気持ちの余裕が出た。逆に相手には、絶対に焦りが出ていたと思います」
慌てて攻撃に出るカメルーンを尻目に、日本を粛々と時間を進める。
「前半のうちに点をとったので、まだ45分以上時間があったし、その得点で浮かれることはなく、しっかりと気持ちを切り替えられた。守り切るというより、バトルで負けないことをみんなで徹底しました。日本のいいところって11人みんなで守れること。それが徹底してできていました」
それでも、最後の5分間は押し込まれる時間が続き、カメルーンのミドルシュートがバーを叩くこともあった。
しかし、意外にも駒野は「不安はなかった」と述懐する。
「どうしても相手は点をとりたいので、前に人数をかけてくるし、日本は押し込まれる時間が多くなる。そのなかでは1、2本、決定的なシュートもあると思いますけど、それでも最後まで守りきれたというのは、自分たちのほうが気持ちで勝っていたからなのかなと思っています」
そして、ロスタイムの4分が経過し、ついに試合終了のホイッスル。日本が1-0でカメルーンを振り切った。
「サッカー選手である以上、ワールドカップというのは特別な試合ですし、そこで勝てたことはいつも以上にうれしい勝利でした」
駒野が初めて味わう世界大会での初戦勝利は、同時に、日本が4回目のワールドカップ出場にして、初めて手にする初戦勝利でもあった。
「大会前の流れを考えれば、見ているみなさんは、初戦を落とすだろうと思っていたかもしれない(苦笑)。でも、そこで自分たち選手が、もう一回奮起したことが初戦の勝利につながった。見返してやろうっていう、そういう気持ちが勝利につながったと思います」
大会前に漂っていたモヤモヤした空気も、ひとつの勝利できれいに入れ替わっていた。
「どうしても試合に出る選手、出ない選手がいるわけですが、短期決戦ではチームがひとつになることがすごく重要になる。初戦を勝ったことで、チームみんなで喜んで、そこから2戦目、3戦目と、チームがよりひとつになった気はします」
勢いづいた日本は、続く第2戦ではオランダに0-1と敗れるも、第3戦でデンマークに3-1と快勝。「初戦を勝ち、選手一人ひとりの気持ちが前向きになったことが、3戦目の勝利につながりました」。
この勝利で、日本は2大会ぶりとなる決勝トーナメント進出が決定。その瞬間、駒野の脳裏に浮かんでいたのは、4年前の記憶だった。
駒野は2006年ワールドカップドイツ大会で登録メンバー入りしたものの、出場したのは初戦だけ。しかも、そこでの敗戦のショックを引きずるように、日本は1勝もできずにグループリーグ敗退に終わっていた。
「(ドイツ大会で)初戦に出られたことは、自分にとってもすごくプラスになりましたけど、やっぱり初戦を落としてしまったことで、2戦目は引き分け、3戦目は負けと、いい流れで試合を進めることができなかった。
その結果、グループリーグ敗退という悔しい大会になってしまったので、もう一回ワールドカップに出場して、今度はグループリーグを突破して、その悔しい気持ちを晴らそうと、それを目標にやってきました」
雌伏の時を過ごしたからこそ、達成感は格別だった。
「ドイツの借りは返せたのかな、と思います」
日本はその後、決勝トーナメント1回戦でパラグアイと対戦。互いにゴールを許さない熱戦は、スコアレスのまま延長戦でも決着がつかず、PK戦の末、日本は初のベスト8進出を逃すことになる。
しかも、勝負を分けたPK戦で、両チームを通じて唯一の失敗は駒野。「今も忘れられない瞬間です」。日本の快進撃は、非情な結末で幕を閉じた。
本人の記憶によれば、PKを失敗した経験は「高校生の時に1回だけ」。あえてゴール上方向の難しいコースを狙ったのも、精度の高いキックに定評がある駒野であればこそ、だっただろう。そんな選手がただひとつのミスを犯すのだから、PK戦とは皮肉なものだ。
日本の敗退が決まった瞬間、駒野はその場で泣き崩れた。体に力が入らず、両脇を支えてもらわなければ、歩くどころか、立ち上がることもできなかった。
「その時は悔しすぎて、顔を上げることができなかった。誰かが横についてくれていることはわかっていたんですけど、正直、それが誰かはわかりませんでした」
駒野がその「誰か」を知ることになるのは、しばらくしてからのことだ。
ふと目にした写真に映っていたのは、目を真っ赤にはらした自分に寄り添う松井大輔と阿部勇樹。小学生時代から互いを知る、1981年生まれの3人が並んでいた。
駒野がうれしそうに、それでいて少し照れ臭そうに、口を開く。
「やっぱり同級生っていいな、と思いましたね」
(つづく)
駒野友一(こまの・ゆういち)
1981年7月25日生まれ。和歌山県出身。サンフレッチェ広島ユースからトップ昇格を果たし、主力選手として奮闘。以降、ジュビロ磐田、FC東京、アビスパ福岡を経て、2019年に現在所属するFC今治へ。年代別の日本代表でも活躍し、2001年ワールドユース選手権(現U-20W杯)、2004年アテネ五輪に出場。A代表では2006年ドイツW杯、2010年南アフリカW杯に出場している。国際Aマッチ出場78試合、1得点。