キャリアを通じて抱いた「もともとは中盤の選手」との思い Jリーグ史上最強のゴールハンターが、今シーズン限りでスパイクを脱…
キャリアを通じて抱いた「もともとは中盤の選手」との思い
Jリーグ史上最強のゴールハンターが、今シーズン限りでスパイクを脱ぐ。積み上げてきたJ1得点数は歴代最多の「191」、史上初めて3年連続の得点王にも輝いた。日本サッカー史にその名を刻むFW大久保嘉人は、2001年にセレッソ大阪でデビューしてから20年間のプロキャリアを、どのように過ごしてきたのか。現役引退を発表した直後、「THE ANSWER」の単独インタビューに応じ、プロ生活での「悔しい思い」や支え続けてくれた妻への感謝の言葉を口にした。(取材・文=佐藤 俊)
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大久保嘉人にとって20年間のサッカー人生の中で「一番の喜び」は、2013年に川崎フロンターレに移籍し、風間八宏元監督に出会えたことだ。基礎技術を学び直し、プレーヤーとしてさらに磨きをかけることで、3年連続でJリーグ得点王にも輝いた。大久保がキャリアで最も輝いた時間だったが、では「最も悔しい思い」をした出来事はどんなことだったのだろうか。
「楽しかったのは、川崎の4年間だけで、あとは個人としては上手くいかないことだらけ。けっこう批判もされたからね。自分を理解してもらえない苦しみは、プロになってからずっと続いていた」
大久保は国見高校時代から得点にこだわりがあったが、ポジションはトップ下で、そこでの仕事を学ぶことでパスを出せる、ゲームも作れる、点も取れる究極のオールラウンダーに進化していった。それがいつの頃からか、「ストライカー」と称されるようになった。FWの仕事は点を取ることであり、そのことのみで評価されるが、大久保は「そもそも、そこが違うんだけどなぁ」と思いながらプレーしていた。
「俺はストライカー? いや、違うでしょ。点は取っているけど、もともとは中盤の選手だからね。でも、ストライカーと言われていたので、そのイメージでみんな見るんです。だから、俺が中盤まで下がってきて、ゲーム作りに参加していると、『なんで下がってくるのか』って言われる。俺は自分が点を取るためにサッカーをしているのではなく、チームを勝たせるためにやっている。そういう意味で、もうちょっと俺の仕事を理解してほしいなと思ったね」
Jリーグで通算191ゴールを取り、J1歴代最多得点記録保持者でもある。しかも史上初の3年連続得点王にも輝いた。数字だけを見れば、「ストライカー」以外の言葉が当てはまらないが、大久保の仕事はそれだけではなく、チームを勝たせるプレーをすることだ。実際、シュートが打てない時は味方にパスを出して勝利を優先している。そこを見誤り、エゴイスト扱いされることに、大久保は自分の仕事が評価されていない悲しさを感じていた。そして、それは引退する今日まで続いた。
最大の感謝をする相手は「うちの嫁」と即答
試合で悔しい思いをしたこともあった。
「南アフリカ・ワールドカップ(W杯)は悔しかった」
2010年の南アフリカW杯、日本代表は開幕前、まったく期待されていなかった。大会直前の合宿中に戦術を変更し、キャプテンを代え、レギュラーもかなり入れ替えた。本番前の突貫工事で負けたら空中分解しそうな状況でW杯に突入した。だが、初戦のカメルーン戦に1-0で勝利すると、第3戦でデンマークにも3-1で勝ち、グループリーグを2位で突破。ベスト16でパラグアイと対戦した。大久保は左MFのレギュラーとして出場。勝ってベスト8に進出すれば日本サッカー史上初の快挙となる。だが、パラグアイにPK戦の末に敗れた。
「今でもパラグアイには勝てたんじゃないかなと思うし、しかもPKで負けたのが悔しかった。その次はスペインとの対戦になっていたので、勝ってスペインとやりたかった。ただ最後、負けた悔しさはあったけど、このワールドカップは自分としてはやり切った感があった」
パラグアイ戦に敗れた後、大久保はビブスを握りしめて涙を流した。
続く2014年ブラジルW杯の時はグループリーグで敗退したが、涙は出なかった。主力としてプレーしたチームに深い思い入れがあり、ベスト8まであと一歩というところまで迫った。W杯という大舞台で、それを乗り越えられなかった悔しさは、サッカーをしている間は、ずっと心に残っていた。
その南アフリカW杯から11年後、大久保は現役引退を決めたわけだが、20年間のプロサッカー人生において「最大の感謝」を捧げるとすれば、誰になるのだろうか。
「うちの嫁ですね」
大久保は、即答した。
「いや、もう俺がこういう性格なもので、移籍する時、嫁に相談することもなく、ポンポン勝手に決めて“行くわー”って感じだったんですよ。勝手に決めているから、そりゃ(嫁に)怒られますけど、何を言われてもサッカーをするのは俺だし、決めたら早く行きたい。だから、引っ越しとかもすべて嫁まかせ。それは海外の時もそうだったので、けっこう振り回しましたね」
国内の移籍ならまだしも、海外移籍となると家族は大変だ。国内で7チームを渡り歩き、海外はマジョルカ(スペイン)、ヴォルフスブルク(ドイツ)の2チームでプレーした。
「移籍先を決めたら嫁は何も言わないし、サポートしてくれるんですよ。サッカーで上手くいかなくなっても、『ほらね』とは絶対に言わなかった。そこは最大の感謝です。嫁の協力なくしては生きていけなかった」
大久保が演じていた熱さ「常に身構えていました」
奥さんは文句の一つも言いたくなったかもしれないが、それを飲み込んで献身的にサポートした。そのおかげで、大久保はサッカーに集中することができ、結果を出すことができた。
「俺の見る目があったということでしょ」
大久保は幸せそうな表情を浮かべてそう言うが、そう思わせている奥さんに懐の深さと余裕を感じる。最大の感謝はしているそうだが、その気持ちをこれまで照れもあったのだろうが、素直に伝えることはしてこなかった。
「記念日のプレゼントはあるけど、サッカーや移籍で大変な思いをさせたことへの感謝のプレゼントやありがとうとか言ったことがない。でも、引退したら強がらないで生きていけるし、“気性の荒い大久保嘉人”をもう見せる必要もないので、嫁にも素直に言えることが増えるかなと思う」
大久保の何気なく言ったことに、思わずハッとした。
気性の荒い大久保嘉人を見せる必要がない――。ピッチ上での熱く、激しく相手や味方とぶつかり合う姿、そして厳しい言葉を残してきた姿は、大久保嘉人を演じていたということなのだろうか。
「そうですね。本当の自分を見せるのが恥ずかしいんですよ。昔からサッカーをしている時はスイッチが入って、ガツガツ行っていたし、そういう自分しか見せてきていない。だから、サッカー選手でいる時は、常に身構えていました。でも、もうそういうのも必要なくなるので、楽になるなって思いますね」
20年間、演じてきた大久保嘉人からの卒業――。それが、大久保にとって、一番うれしいことかもしれない。(佐藤 俊 / Shun Sato)
佐藤 俊
1963年生まれ。青山学院大学経営学部を卒業後、出版社勤務を経て1993年にフリーランスとして独立。W杯や五輪を現地取材するなどサッカーを中心に追いながら、大学駅伝などの陸上競技や卓球、伝統芸能まで幅広く執筆する。『箱根0区を駆ける者たち』(幻冬舎)、『学ぶ人 宮本恒靖』(文藝春秋)、『越境フットボーラー』(角川書店)、『箱根奪取』(集英社)など著書多数。2019年からは自ら本格的にマラソンを始め、記録更新を追い求めている。