来年3月の北京冬季パラリンピックに向けて注目選手を紹介している本連載。最終回は、大けがをきっかけにパラアスリートに転身した元トッププロスノーボーダーが登場。彼が「第二のアスリート人生」にかける思いとは。ここではメンズノンノ12月号本誌で掲載…

来年3月の北京冬季パラリンピックに向けて注目選手を紹介している本連載。最終回は、大けがをきっかけにパラアスリートに転身した元トッププロスノーボーダーが登場。彼が「第二のアスリート人生」にかける思いとは。ここではメンズノンノ12月号本誌で掲載したインタビューの内容を大幅に拡大してお届けする。

―11月から遠征が続くそうですが、北京パラリンピックまではどのようなスケジュールで活動されていく予定ですか?

ヨーロッパでのワールドカップ転戦を経て、1月にはノルウェーでの世界選手権がありますが、幸いパラリンピック出場の内定をいただいているので試合での結果を求めるというよりは本番の北京に向けての調整になると思います。その後2月に予定されている一ヶ月間の国内強化合宿を経て3月にそのまま北京に臨むことになりますね。

―元々プロスノーボーダーとして活躍されていた岡本選手は2015年に脊髄損傷の大怪我を負ったことでパラアスリートとして第二のアスリート人生を歩まれています。ご自身としても思いもよらない形でもう一度競技の世界に戻って来られたと思いますが、率直にどんな思いで日々スノーボードと向き合っていますか?

成り行きといえば成り行きですけど、かつてフリースタイルをやっていた頃に縁のなかったオリンピック・パラリンピックに脊髄を損傷したことで出る機会が巡ってくるというのはなんだか面白いですよね。実はプロスノーボーダーになってから自分の中で5つ目標を立てて、そのうちスノーボード雑誌のカバーを飾る、自分のシグネチャーモデルのギアを出すことなど4つは達成したのですが、唯一「世界大会の表彰台に立つ」ことだけ達成できていなかったんです。その諦めかけていた目標に、パラリンピックに出るという形で再びチャレンジできる機会に恵まれたことが自分としてはすごく嬉しいんですよ。

―脊髄損傷は選手生命を脅かすどころか、ケースによってはもう一度歩けるようになることさえ難しいと言われる大怪我。岡本選手が厳しいリハビリに打ち勝ち、こうしてもう一度スノーボードを滑れるようになるまで回復した原動力とは?

僕は28歳の頃に膝の骨折をきっかけにそれまでの主戦場だった国際大会への出場をやめて、北海道テレビの番組ナビゲーターをやったり自分のライディングをDVD映像や雑誌の写真で表現するなど、ライフワークとしてスノーボードに取り組むほうにシフトしたんです。そのスタイルが自分の中ですごくしっくりきていたと言いますか、むしろそれまでの人生でいちばん調子が良かったんですよ。思うように身体と心がリンクして、「自分がやりたかったスノーボードはこれだ」と。でも調子が良いときほど怪我には気をつけろとよく言いますよね。撮影中にやっちゃったんです。その瞬間はもう、すべてを失ったなって思いましたね。一言で言うと絶望。おそらく自分一人だったら復活できなかったと思います。でも家族の支えはもちろんのこと、入院中に10歳年下の後輩が病院に来てくれて「雪上に戻った1回目の滑りはきっと今までのどれよりもカッコイイと思う」と言ってくれたり、それまで面倒を見てきた若い子たちから逆にすごい力をもらったことで「ダメだとか、終わったとかって思っていても何にも始まらないな」と思えたんですよ。

―入院とリハビリは一年以上にわたる過酷な闘いだったとお聞きしました。

そうですね。でもリハビリは楽しかったんですよ。最初はイメージするだけのところから始まって、ちょっと自分の意志に身体が反応して動くようになって、次第にどんどん負荷に耐えられるようになって、という感じで日々できることが増えていくことがまるでスノーボードの練習のようで。いちばん感動したのはもう一度自分の足で立てたとき。「おお、高いところに手が届く!」みたいな。一時はトイレすら1人でできなかったので、そんな普通のことがありがたいことなんだと噛み締めながらリハビリしていました。

―以前にテレビのドキュメンタリー番組で拝見しましたが、そのリハビリ生活を経て人生観が大きく変わったそうですね。

もう、めちゃくちゃ変わりましたよ。怪我をしてズタボロになってみて初めて1人では何もできない自分の「弱さ」を知ることができましたし、何よりそれまで言っていた「感謝」という言葉が口先だけだったんだなと痛感しました。友人や後輩たちに支えられて本当の意味で誰かに感謝する気持ちを持てるようになり、また家族が自分の宝物だなと心から思えるようになりました。リハビリを終えて、もう一度、雪上に立てた最初の瞬間は思わず声が出ちゃいましたね。「やっぱこれだよ!」って。

―そこからもう一度競技者として、パラアスリートとしてやっていこうと決めるにはどんなきっかけがあったのでしょうか?

雪山に戻ったあと、実は喜びは一瞬で、以前の10分の1くらいのレベルでしか滑れない自分にひどくもどかしさを感じてスノーボードが全然面白くなくなってしまったんです。そこから2年くらい何をやってもむなしくて。「失ってしまったものはもう戻らないんだな」という思いでいっぱいでした。それであるとき、軽い気持ちでパラのスノーボードクロスの大会に出てみたらあっさり負けちゃいまして。そこで障がいのあるライダーたちの凄さを感じたと言いますか、同時に負ける悔しさも自分の中で蘇ってきて、「あいつらに勝てるようにもう一度がんばってみよう」と自然と思えたんですよね。そこから練習を重ねるうちに「スノーボードはやっぱり自分のライフワークだな」と感じられるようになり、また「自分は何かを昇華し続けることでしか満足感は得られないんだな」ということに気がつきました。

―やはり乗り越えるべき壁というか、具体的な目標こそが当時の岡本選手には必要だったのですね。

まさにそうですね。ただスノーボードを滑るだけでなく、それを通していろんなことを学ばないと意味がないということをあらためて実感しました。スノーボードクロスは以前にやっていたフリースタイルとは全く別の競技ですが、だからこそ怪我をする前の自分と比べることなく楽しめるようになったことも大きかったですね。「クロスでも一番になれたら面白いな」って、だんだんとそういう考えにシフトできるようになったんです。

―フリースタイルは技の難易度やジャンプの高さを競う競技ですが、岡本選手が現在取り組んでいるスノーボードクロスはタイムを争うレース競技。その醍醐味とは?

競技性は異なりますが、同じスノーボードではあるので表現方法が変わったくらいの感覚でしょうか。スノーボードクロスでは、外国人選手はウェイトがあるので直線が速く、僕らのようなフリースタイル出身の人間は器用だから細かなテクニックに長けている。そうやっていろんな特性のある選手たちがひとつのコース上で駆け引きしながらレースをするのでマリオカートみたいで観る人も面白いと思います(笑)。選手目線で言うと、スタート直後にでこぼこしたセクションがあってその後にジャンプ台、バンク、ウェーブのようなものが複合的に合わさってきて、また斜度のきつさやバンク、キッカーの数などもコースによって全然違うのですごくテクニカル。ちなみに僕は世界で3番目くらいにスタートが速くて斜度があるコースだとかなり勝てるんですけど、斜度が浅くて直線が多いコースだと100kg近くある外国人選手たちがめちゃくちゃ速い。そのへんも楽しい部分ですね。

―他のパラスポーツ同様、選手一人一人が障がいを負った経緯などバックグラウンドが異なると思いますが、他の選手たちとのコミュニケーションで感じることはありますか?

グルーヴ感を感じますね。実は昨シーズン、2018年の平昌パラリンピックで金メダルを獲得した女性選手が亡くなったのですが、ワールドカップの試合前にその方を偲びながら選手みんなでコース上に一列になって黙祷を捧げました。そのようにパラの競技には障がいをみんなで乗り越えようといったマインドがベースにあると思いますので、試合中はバチバチ感があったとしても選手間の関係はすごくいい。それに海外ではとくに、パラスポーツに「カルチャー」を感じますね。あるとき海外の雪山でゴンドラに乗っていたら、乗り合わせた10代くらいの女の子が僕らのチームに足に障がいのある子がいたことに気づいて「パラの選手がいるからみんな立って!」って大声で周りに呼びかけてくれたんですよ。僕ら自身はそこに甘えるのは好きではないけれど、彼女のような心遣いが自然にできてしまうカルチャーはすごく素敵ですし、そういった経験を少しずつ日本でも伝えていきたいなあとは思います。

―初となるパラリンピックで岡本選手がスノーボーダーとして表現したいこととは?

純粋に「出し切りたい」というところですかね。どういう結果になろうが自分が100%やり切ったと思えたらそれでいいです。一度ドロップアウトしている僕にとって、北京パラリンピックは人生のボーナスステージみたいなもの。だからメダルを取らなきゃいけないというプレッシャーはどこにもなくて、とにかく精一杯、100%今の自分の力にフォーカスしてやれるかどうかに賭けているので、結果云々ではなく「最高やったな」って笑顔が出せるような滑りがしたいですね。

―ある意味、フリースタイル時代も含めて「スノーボーダー岡本圭司」の集大成に。

ひとつそういった形になるとは思います。ただね、実はその次のイタリア(2026年コルティナダンペッツォ大会)も出たろうと思っているので(笑)。平昌、北京とアジアの大会が続いているので本場のヨーロッパの雪山でスノーボードの勝負がしたいという思いもありますし、可能性があるのであれば行けるところまで行ききりたいというか、チームの若い子たちに負けて出られないっていうところまでは現役でやってやろうと今は思っています。今39歳で北京パラリンピックは40歳で迎えるのですが、そんな自分がそうやってまだ世界をめざせるなんてほんまに夢があるなと。この先、僕自身が誰よりも楽しみにしています!

【プロフィール】

岡本圭司さん
おかもと・けいじ●1982年2月20日生まれ、兵庫県出身。高校卒業後にスノーボードを始め、2007年には世界中からトップライダーたちが集った当時の国内屈指の大会「日産X-TRAIL JAM IN 東京ドーム」で5位に入賞するなど、日本のスロープスタイル、ビッグエアの第一人者として人気を博す。15年、スノーボード映像の撮影中の事故で脊髄損傷の大けがをして右ひざ下にマヒが残る。そして18年にパラスノーボードで競技生活を再開。来年3月の北京冬季パラリンピックにスノーボードクロスでの出場が内定している。