「THE ANSWER the Best Stories of 2021」、秋本真吾が語るセカンドキャリア問題 東京五輪の開催で盛り上がった2021年のスポーツ界。「THE ANSWER」は多くのアスリートや関係者らを取材し、記事を配信した…

「THE ANSWER the Best Stories of 2021」、秋本真吾が語るセカンドキャリア問題

 東京五輪の開催で盛り上がった2021年のスポーツ界。「THE ANSWER」は多くのアスリートや関係者らを取材し、記事を配信したが、その中から特に反響を集めた人気コンテンツを厳選。「THE ANSWER the Best Stories of 2021」と題し、改めて掲載する。今回は陸上のスプリントコーチ・秋本真吾さんが連載「秋本真吾の本音note」で実体験から語った、アスリートのセカンドキャリア問題について。

 サッカー日本代表選手、プロ野球選手など多くのトップアスリートに“理論に基づいた確かな走り”を提供する秋本さん。現役時代は400メートルハードルの選手としてオリンピック強化指定選手にも選出、特殊種目200メートルハードルのアジア最高記録などの実績を残し、引退後は企業勤務を経験していたが「僕が引退後、社会を知らずに見た地獄」とは――。(聞き手=THE ANSWER編集部・神原 英彰)

 ◇ ◇ ◇

――秋本さんは引退後にした仕事で、大変な苦労をされたそうですね。実際にどんな経験だったのか、聞かせてください。

「僕は30歳で引退すると決めていて、実際に12年6月に引退した後は人に走り方を教えることをビジネスにしたいと思っていました。でも、お金にするビジネスのノウハウは持っていないので、実際に現役を退いた後は競技をする中で知り合った人で力になってもらえそうな人の名刺を探して連絡することから始め、当時住んでいたつくばから都内に毎日通って実際に会い、いろんな人にセカンドキャリアの相談をしていました。

 その中で知り合った人に『いい仕事があるよ』と言われたんです。東京都のある区が小中学校にいろんな競技のトップアスリートを派遣し、運動能力を向上させるという事業でした。陸上で足を速くするという仕事を任せてもらうことになり、小学校2校、中学校2校に通う日々が始まりました。多い時に月70万円くらいを稼げるようになりました。これはスポンサーがついていた現役時代よりも多い額です」

――セカンドキャリアのスタートとしては恵まれていますね。

「自分のやりたい走りの指導もできているのでやりがいがあったのですが、仕事を紹介してくれた人が今度は『もっと活動の幅を広げてみたら?』と会社を紹介してくれました。そこで新しく大学生の就職支援を始め、特に体育会学生を人材紹介会社に斡旋する事業をするので、一緒にやりませんかと。その会社が体育会学生を集め、人材紹介会社に登録してもらい、実際に内定したら会社にフィーが入ってくる仕組みです。

 加えて『秋本さんが持っている速く走るメソッドをフックにして全国のいろんな大学、部活、選手に教え、会社はそれで体育会学生にアプローチしたい』と言うので、すごくいい話と思い、業務委託をすることになりました。『契約をする』と言われ、なんだか契約ってすごいなと思っていたのですが、実際に契約書を見たら報酬は月15万円と書かれていました」

――15万円だけですか……。

「最初に紹介してもらった渋谷区の仕事も翌年3月で終わることが決まっていたので、30万円は欲しいと思ったのですが、『そこは成果報酬にしましょう。成績を残せたら30万円くらいまでは保証します』と。それで同意したら、会社の方から『秋本さん。明日、新宿で就活セミナーがあるので、そこから出てくる学生を出待ちして営業します』と言われました」

――出待ちで営業、ですか?

「僕も『えっ?』と思って翌日、社員の方と一緒に行ったら、会社の支援内容と協力アスリートの顔が載っている1枚の紙と渡され、就職セミナーをやっているビルから出てくる体育会学生に声をかけて説明して、住所、氏名、電話番号をもらって登録してもらってくださいと。『何、この仕事?』と思ったのですが、社員の方が『手本を見せます』と言い、実際に声をかけて巧みなプレゼンで目の前で2人登録してもらいました」

心を蝕んだ“辞めたら負け”の感覚「競技時代はどんな時も逃げなかったから…」

――その営業を秋本さんもやったのですか?

「はい。『秋本さんもやってください。手分けしてやりましょう』と言われ、でもそのビルに出入りしているのは学生だけじゃないので、声をかけたら全く違ったりするんです。明らかに体ができている男子2人に声をかけたら、ある私大の軟式野球部員で『ええ、どうしよう』とリアクションをされながら『やっぱりいいです』みたいなことの繰り返しで、めちゃくちゃ断られました。でも2時間やって、やっと2人登録してもらえました」

――そこから、実際に営業するようになったと。

「それが始まりでした。次は都内のある私大のキャンパスに来てくださいと言われたのですが、アポなし。『学生に3年生か確認して決まってなかったら登録させてください』と言われました。体育会の部室に行って『3年生いますか? 就職決まってない人いますか?』と聞いて回って『なんなの、この人』みたいな顔をされながら。俺、何やってるんだろうと、3~4時間歩き回って最後はもう気力が尽きて椅子に座って、ただただ時間が過ぎるのを待ってました」

 これを毎日どこかの大学に行ってやる日々が始まりました。その中でなんとか月に5人、10人と登録してもらっていきました。『何だよ』と思いながら、部活で走り方を教えて、その流れで就職サポートの話までするというパッケージでやったら、別に僕自身はまともに就活もしたことないのに就活の指導までしたりして、月15人、20人という単位でみんな登録してくれて。“営業できる人”みたいになってしまいました」

――会社にとってはありがたい存在ですね。

「そうしたら『月30人いきましょう』となりました。本当はやりたくないですが、母校の監督、知り合いがいる大学にお願いすると、信頼関係があるので『ぜひ、やってよ』となる。実際にある陸上部で30人相手に営業したら30人登録してくれたこともありました。とはいえ、指導できる機会はほぼない。本来目指していたトップアスリートの指導の機会はほぼない状況でした。営業の成績は出ている、ただそれに喜びは一切なかったです。

 でも、決定的だったのはお金のことです。区の仕事でもらっていた金額は個人口座に振り込んでもらっていたのですが、『そのお金は会社の売上になるから会社に戻して』と言われ。『えっ?』と思ったのですが、訳も分からず、結局、数か月毎日のように小学校や中学校で区からいただいていた金額は全部戻すことになりました。つまり、月15万円だけが僕の給料です。それ以外のイベントやトップアスリートへの指導などでもらったお金も会社に戻すという話でした」

――それでは生活も苦しくなりますが……。

「でも、これが普通なのかなと思っちゃったんですよね。だって、分からないじゃないですか、社会の常識が。僕も何回も泣いて『キツイです』と伝えることがありました。でも『秋本さんならできますから、頑張りましょう』と。そうしたら僕も簡単にやめられなくなってしまう。“辞めたら負け”みたいな感覚があったので」

――「辞めたら負け」って、すごくアスリートっぽい考え方ですね。

「まさにそうなんです。競技時代はどんな時も絶対に逃げなかったから。そのマインドだけ転用してしまった。同じように『絶対に逃げない』と思っていたんです。でも、月15万円の給料。家賃10万円くらいの家に住んでいたので、本当にお金がなくて。ごはんは食べない。持っている服をオークションで売る。そんな生活をしていたら引退してほんの何か月で8キロ痩せて、ストレスで2回入院して、虫垂炎にもなりました。

 今も一緒に仕事をしている伊藤友広(アテネ五輪1600メートルリレー4位)と引退後に初めて会った時、顔を見るなり第一声で『真吾、大丈夫?』と言われました。当時は強がって『俺、毎日めちゃくちゃ充実している』っぽい感じを出したくて、そんな発信をツイッターでどんどんしていました。でも、蓋を開けたら全くそんなことはなく、毎日が苦しくて毎日が地獄でした」

“知らないことを知らなかった”自分、大切なことは「本当になりたい姿が見えているか」

――結局、いつまで仕事を続けたのでしょうか?

「登録者の目標が月50人、月60人と増え、最終的に『月100人いきましょう』となりました。でも、あまりに疲弊していて家で休んでいて会社から電話があり、『何やってるんですか、このペースで100人いけるんですか』と言われ、腹が立って『絶対、100人いってやる』と、人脈を駆使して、かたっぱしから頭を下げて営業しまくったんです。

 そうしたら、当時、よく面倒を見てもらっていた方が大学のボート部のコーチが埼玉の戸田でやる大学対抗の試合に誘ってくれました。ボート部は各校の戸田公園に寮が密集しているので、寮をぐるぐると回ったら、月97人いったんです。とんでもない数字で、ガッツポーズしたいくらいです。その時、初めて自分によくやったと言いたくなりました。それで『97人いきました』と報告したら『そうですか、じゃあ来月を100人目指しましょう』とあっさり返されたんですよね。

 その瞬間、気持ちが完全に切れましたね。もう、ここじゃないと。自分が陸上競技で得てきた感動とは全く違うと思いました。子供に、アスリートに走りを教えて僕の経験を還元したことにより、足が速くなったと喜んでくれる。もうこれしかない、ここに行こうと思いました。それで会社に言いに行きました。

『僕はスプリントコーチで生きていきます』と。結局、9か月会社にいましたが、何のために生きていけばいいか分かりませんでした。週1度のミーティングは朝7時半に横浜のオフィスであり、都内の自宅から始発で向かう生活。そのミーティングの前夜は吐き気がして寝られず、初めて『明日が嫌だ、怖い』と思っていました。人生であの期間が一番キツかったです」

――秋本さんの経験は今、競技をしている学生アスリートにとっても大切な話ですね。競技に打ち込むあまり、よく知らないまま社会に出ることでミスマッチにつながってしまいます。

「ソクラテスの言葉に『無知の知』という言葉がありますが、物事を“知らないこと”より、自分が“知らないことを知らない”の方が良くないと思います。そもそも“知らないことを知らない”人って多いものです。知っているものの数が多いほど、その時の行動は変わってきます。僕はそういう会社の仕組みを深く調べず、契約を結んでしまったことが良くなかったと思います。

『それはあなたが悪いのでは? 30歳にもなって世の中のこと知らなくて』と言われたら、僕が悪いです。会社からしても『契約したのは秋本さんですよね?』となるので。今、ツイッター、インスタ、ホームページでいろんな会社からDMで『こういうことやりませんか?』と来る。でも今は文面を見ていろいろと感じられるし、何より会社のホームページを見るじゃないですか。でも、当時はそんなこともせず『やりたいです』と言っていたので」

――一般社会からすると信じられないかもしれませんが、それもアスリートの現実です。原因はどこにあるのでしょうか?

「自分に余裕がないからです。お金がない、余裕がない、将来が見えない……となると、全部おいしい話に聞こえてしまう。そう思っているアスリートもいっぱいいると思います。今ならYouTubeに出たり、テレビに出たり、露出がしやすい。でも、こういう番組に出たらどういう見られ方をするかも想像できずに出ている人もいるはず。バラエティー番組は好きじゃないけど、オファー来たし、お金がいいから行くかと思ってしまいます。

 でも、実際に出てみたらさんざんいじり倒されて『何、この人?』みたいに思われるブランディングにつながることもあります。当然、出てみないと分からない領域かもしれないですが、それは“知らないことを知らない”だけ。そこをいろいろ調べてみる、自分なりの人脈で聞いてみる、そういうことは絶対しておいた方がいいと僕は思います。特にある程度、実績を残した人ほど“おいしくない”おいしい話が来きます。それをどう見極められるかです」

――見極めるポイントはどこにあると思いますか?

「本当に自分がなりたい姿が見えているかどうかじゃないでしょうか。スポーツに置き換えたらシンプル。日本一を目指す大学生がA社というサプリメント会社がスポンサーにつきたいと言われた時、自分なりに調べてA社よりB社がいいと分かれば断ると思う。それは、知らないことを知ろうとしているから。しくじり先生じゃないですが、僕の場合は知らないことを知らなかったからこうなった、ということを後輩にも知ってもらいたいです」

■秋本真吾

 1982年生まれ、福島県大熊町出身。双葉高(福島)を経て、国際武道大―同大大学院。400メートルハードルを専門とし、五輪強化指定選手に選出。当時の200メートルハードルアジア最高記録を樹立。引退後はスプリントコーチとして全国でかけっこ教室を展開し、延べ7万人の子どもたちを指導。また、延べ500人以上のトップアスリート、チームも指導し、これまでに指導した選手に内川聖一(東京ヤクルトスワローズ)、荻野貴司(千葉ロッテマリーンズ)、槙野智章、宇賀神友弥(ともに浦和レッドダイヤモンズ)、神野大地(プロ陸上選手)ら。チームではオリックスバファローズ、阪神タイガース、INAC神戸、サッカーカンボジア代表など。オンラインサロン「CHEETAH(チーター)」では自身のコーチング理論やトレーニング内容を発信。多くの現役選手、指導者らが参加している。(THE ANSWER編集部・神原 英彰 / Hideaki Kanbara)