池井佑丞さんインタビュー前編、2つの道を選んだ経緯とは 格闘技イベント「R.I.S.E.(現在はRISE)」などで活躍し、現在は医師、経営者としても活動する池井佑丞さんが「THE ANSWER」のインタビューに応じた。医大生時代に格闘家とし…

池井佑丞さんインタビュー前編、2つの道を選んだ経緯とは

 格闘技イベント「R.I.S.E.(現在はRISE)」などで活躍し、現在は医師、経営者としても活動する池井佑丞さんが「THE ANSWER」のインタビューに応じた。医大生時代に格闘家としてプロデビューしながら、医師免許を取得。“闘うドクター”として注目された。現在は産業医として人々の健康に向き合いながら、経営者、選手のトレーナーとしても活動中。40歳 の異色の道のりと現在のビジョンを前後編でお届けする。前編は2つの道を歩んできたこれまでについて。(聞き手=THE ANSWER編集部・宮内 宏哉)

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――本日はよろしくお願いします。池井さんは06年に格闘家としてプロデビューし、07年には医師免許を取得。2つの道を同時に進んでこられましたが、それぞれを目指すことになった経緯を教えてください。

「医師を目指したことに関しては、家業が病院だったことが大きいです。跡継ぎでもありましたし、周りに医療関係者が多いので、医師への憧れがベースです。ただ、そのために進学校に進む一方、『親に敷かれたレールを歩きたくない』とベタな反抗期もありました。落ちこぼれていた時期も長く、子供なりに人生を悩んでいた中で『俺ならもう1人分くらいの人生を歩めるはず』と思った時、変な自信と腑に落ちる感覚がありました。医者になりつつ、自分がやりたいこともやっていこうと、高校生の頃に考えたのが原点です」

――「落ちこぼれ」と表現されますが、具体的にはどんな学生時代だったのでしょうか。

「研修医くらいまでずっと落ちこぼれでしたね……中学1年から成績はずっと下から2番目。高校卒業の時点で偏差値40しかなく、受験も失敗。このままグダグダしていてもキリがないと思い、宅浪(自宅浪人)してなんとか1年頑張って杏林大の医学部に合格しましたが、大学では1年生のまま2留。授業にもあまり出席しなくなり、相変わらずの落ちこぼれでしたね。

 この時期に格闘技に出会って自分たちでサークルを作ったのですが、それで大学に行く理由ができ、『ついでに授業出るか』と。はじめは何となくでしたが、凝り性なところがあるので勉強もやり始めたら楽しくなって、それから順調に進級、国家試験と問題なく進みました」

――偏差値40から1年で医学部に入学するというのも凄い話だと感じます。どうやって合格を掴んだのでしょうか。

「高校には全然登校しなかったので、予備校に入ってもまたダラダラやっちゃうだろうなと。1年で終えたいから宅浪を選びました。兄が今でいう高校認定で大学進学していて、その姿を見ていたので自学で受験することにはこだわりもありましたし、勉強は好きじゃなかったので、いかに最小の努力で医学部に入るかを研究し、『この方法とプランで行けば受かる』と決めて、何とか合格しました」

――格闘技に出会った経緯について、もう少し詳しく教えてください。

「もともと観戦が好きで、大学2年生の頃、格闘技をやりたいという先輩に『詳しいなら一緒に行こうぜ』と格闘技ジムに体験で連れていかれたのがきっかけです。好きが高じたのもあり、最初から割と動けたので『これ楽しいかも』と思って、最初は友人と2人でサークルを始めました。

 口コミでどんどん人が集まって、気付けば常時10人くらい練習に来るように。レベルも上がり『そろそろ試合に出てみてくださいよ』と空気に押されて仕方なく出たら、その年の全日本2位の選手に勝ってしまい、そのままアマチュア日本一にもなりました。そしてそのままプロデビューも決まりました。その瞬間まで、全くダメな学生だったと思います」

2つの道を進むことで「苦労したというより助けられた」

――いきなり日本2位の選手に勝ったのは凄い。

「種目は総合格闘技。競技を始めて2年くらいで勝ったおかげで注目してもらえました。そのあと初めて出たキックボクシングの大会で日本一になり、その次の日からプロ選手となりました」

――医師を目指しながらも、在学中の2006年に「R.I.S.E.」でプロデビュー。当時はどんな生活を送っていたのですか。

「どのジムもそうですが、プロは基本的に昼間に練習しています。僕の場合は学校があるので夜にジムに通うのですが、周りには一般会員さんしかいなかった。プロは全然いなかったので、試行錯誤して練習していました」

――最後に試合に出場したのは2012年ですが、実はまだ引退していない。

「仕事が落ち着いたら出たいですね。自分のチームを持っていたり、普段からチャンピオンの子たちとスパーリングしたりしているので、コンディションさえ作ることができれば昔以上に強いのではないかなと思っています」

――現在は所属ジムのクロスポイント吉祥寺で日菜太選手の、ジムの外ではKrushライト級王者になった瓦田脩二選手のトレーナーをしつつ、一緒に練習もこなされています。

「夕方まで産業医として勤務して、その足でジムに行って、チャンピオンとスパーリングして帰ります。チャンピオンは強くてスパーリング相手がなかなかいないので、よく駆り出されています。今でも強いと思いますよ(笑)」

――医師と格闘家、2つのことを同時にやるのは難しくなかったのでしょうか。

「よく聞かれるのですが、個人的にはこの2つがなければ上手くいかなかったと思っています。プライベートが充実しているから仕事も頑張れるし、逆もそう。満足と納得があり、苦労したというより助けられました。

 僕の中ではダブルワークとか、仕事とプライベートとか、2人分の人生というのがテーマですし、これを持つことでバランスが取れたり、シナジーが生まれたりするのがパターンとして成り立っているので、試合に出なくなってもプライベートの部分、医師以外の部分を大事にしています。結果、起業やトレーナーをやることにも繋がっているので、僕自身にとって大切だったかなと思います」

周囲からは片方に専念すべきの声も「自分にしか出せない価値がある」

――プロとして活動していた2007年に医師免許を取得、その後は内科医となり“闘うドクター”としても注目されました。現在は産業医として勤務されていますが、これまでの人生で最も印象に残る挫折経験はなんですか。

「基本ずっと挫折していたというか……落ちこぼれなので、何年かに一度の成功体験でリカバリーして生きてきたのが実際のところです。やっぱり2つのことをしてバランスをとっているのは事実ですが、試合の準備が十分にできなかったこともありましたし、仕事や人間関係が疎かになって周りに嫌な思いをさせてしまうこともあったので、その瞬間は罪悪感というのが強くありました。30代半ば頃はしっくりこず、初めて『この生き方でいいんだっけな』と思っていた時期が何年かありました」

――その思いはどうやって解消されたのでしょうか。

「自分の覚悟の問題だと思ったのと、当時の恩師には『医者なんだから24時間、365日医者であれ』と言われて、そりゃそうだと思いました。もちろん一日中ずっと働くことはできないけれど、いつでも医者らしく『人に優しくしよう』『世のため人のためになろう』と真摯にやっていないとダメだと。それありきでの自分のプライベートだったり、欲求だったりするのかなと。

 その言葉で姿勢を正すことを気付かされましたね。もうちょっと働けとか、好きなことやっている場合じゃないだろと言われるケースもあるのでしょうけど、僕も1人の人間としても生きているので、プライベートはプライベートで楽しみつつ、基本的には『いつでも医者らしく生きていこう』と思ってから、なんとなく生きやすくなったというか、自分らしい生き方を見つけられました」

――周囲から「どちらかに集中した方がいい」「1つに絞れ」などと言われたことはありましたか?

「2007年に『R.I.S.E.』のDEAD OR ALIVE TOURNAMENTで準優勝したのですが、この直後に国家試験が控えていて、まさに同じタイミングになってしまってかなり危なかったです。スポンサーさんから『格闘技に専念するなら』と声をかけていただいたケースも沢山ありますし、医療関係者からは当然『医師業務に集中したら?』と言われたこともあります。

 でも、2つやっていたから今の自分があると思いますし、2つやっている自分にしか出せない価値があると考えています。もちろんそのせいで完璧にできず迷惑かけたケースもあったと思いますが、今となってはそこにこだわったおかげでいろいろなことがあると思います。

 僕の場合はたまたまどちらも仕事みたいになっていますが、いわゆるライフワークバランスは産業医としても啓蒙しているところ。双方の充実がシナジー(相乗効果)を生んで、自分自身の人生をよくしているし、世間的にも2つの専門分野を持っていることで注目してもらえるケースがあるのでやって良かったと思うし、できるのであれば皆さんにもお勧めしたい」

(後編に続く)

■池井佑丞(いけい・ゆうすけ)

1980年12月31日生まれ、宮崎県出身。家業が病院ということもあり医師に憧れを抱くも、鹿児島・志學館高卒業時には偏差値が40しかなかった。1年間の浪人の末に杏林大医学部に進学。2年時に格闘技に出会い、06年プロデビュー。07年の「R.I.S.E.」 DEAD OR ALIVE TOURNAMENTで準優勝。同年の医師国家試験に合格したこともあり“闘うドクター”として注目された。戦績は12戦7勝(5KO)5敗。選手でありながらも内科医として勤めていたが、15年から産業医に。現在は日立グループ企業の統括産業医を務めながら、起業した株式会社リバランス代表として様々なサービスを提供。トレーナー、セカンドキャリアサポートなど事業を手広く手掛けている。(THE ANSWER編集部・宮内 宏哉 / Hiroya Miyauchi)