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<第3回 前編はこちら>

――FMW崩壊後にミスター雁之助さんやハヤブサさんと共にWMF旗揚げに参加されたマンモス選手ですが、2003年3月19日に冬木弘道さんが壮絶なガン闘病の末に42歳の若さで他界されます。お世話になった冬木さんについて思い出すエピソードとかございますか?

マンモス:FMW時代に巡業とか一緒に回っていたんですよ。宣伝カーに乗ったりとか。WAR後期でリングアナウンサーを務めて、後に冬木さんと行動を共にする中村吉佐さんという方がいまして、この中村さんと冬木さん、山崎直彦、元川恵美(さくらえみ)さんの5人で巡業を回っていたんです。その関係もあって、若手時代は冬木さんにはよくしてもらいまして、冬木さんの昔話とか聞かれてもらったりとか。FMW崩壊後に二つに分かれた時も、金村さんから「お前はこっちの人間だと思っているから、来ても大丈夫だよ」と冬木さんの誕生日パーティーに呼ばれました。冬木さんはガンに効く健康ドリンクを飲んでいて、そこで冬木さんから「お前はハヤブサのことがあるから、そっちにいく気持ちはわかるよ。もし何かあったら、気にせずにうちに来いよ」と言ってくれたのが嬉しかったですね。

――冬木さんはマンモス選手の事情も分かった上で、今まで通りの関係でいてくださったんですね。ちなみに最後にお会いしたのはいつですか?

マンモス:意識がなくなって亡くなる直前くらいに病院にいきました。

――確か冬木さんの奥さんが「必死に闘っている夫を撮ってください」とお願いして、東京スポーツの記者やカメラマンも病室に入れて、昏睡状態の自分を撮らせていると思うんですよ。

マンモス:病棟の待合室かエレベーターホールで話して、WEWにプロデューサーで関わっていた伊藤豪さん(元FWMレフェリー兼ブッカー)が「冬木さん持ち直すから、大丈夫だよ。また何かあったら連絡するよ」と言われて、みんなで一回引き返したんですよ。高速道路に乗って、埼玉のインターに入ったぐらいに伊藤さんから電話がかかってきて、「ボス、亡くなった…」と。

――冬木さんが亡くなったその日にマンモス選手も病院にいたんですね。

マンモス:そうですね。冬木さんは「何とか一緒にいられないのか」と何度も言っていたんですよ。僕が意固地になっていた部分もあったのですけど、本当は冬木さんと一緒にやれたらよかったのかもしれないですね。選手間で問題があったのは上の人達で、僕としては何もわだかまりもなかったので、WEWとWMFがいつかひとつになったらいいなというのがずっとありましたね。

――FMWを見続けてきたファンはマンモス選手と同じ思いなのではないでしょうか。FMW崩壊後にWEWとWMFと二つに分かれましたが、いつか一緒にやってくれたらと…。

マンモス:映画「仁義なき戦い」みたいなんですよ。誰が誰の顔を立てるとか、誰が誰を盾にするとか色々とあって…。もっとみんな素直になれば…。

――そうですよね…。ここからは大怪我を負ったハヤブサさんの話になります。ハヤブサさんは2001年10月22日にマンモス選手との試合で頸椎損傷という大怪我を追い、事実上の再起不能状態となりましたが、必死にリハビリに励みプロレスラーを引退することなく、リング復帰を諦めずに最後まで闘い続けました。またシンガーソングレスラーとしての活動を去れていて、積極的にライブ活動をされていました。しかし、2016年3月3日に、くも膜下出血で帰らぬ人になりました。ハヤブサさんが亡くなったという一報はどこで知りましたか?

マンモス:あの……ある方から「噂でハヤブサさんが亡くなったと聞いたけど本当なの?」とLINEがきたんですよ。「そんなわけないでしょう」と思っていたんですけど、これは確認しないといけないという気持ちになって、ハヤブサさんが住んでいる蒲田にいったんですよ。よく定期的にライブをやっていた店のマスターに聞くと「そうなんだよ、亡くなったんだよ…」と。それで「今、どこにハヤブサさんはいるんですか?」と聞くと「蒲田警察署にいる」とのことだったので、すぐに警察署まで乗り込んでいったんです。ハヤブサさんに会わせてほしいと…。

――はい…。

マンモス:でも警察では検死の作業とかもあったようで、「亡くなったのか、亡くなっていないのか教えてください!」と聞いても「ハッキリしたことは言えない」と言われて…。そうこうしているうちに、ハヤブサさんのお母さん、弟さんと合流しまして、そこでも僕は「ハヤブサさんが亡くなったのですか?にわかに信じられないんです!」と言ってました。この話を信じたくなかったですから。

――確かにマンモス選手の立場ならば、そうでしょうね…。

マンモス:それでJR蒲田駅前にある「串猿」という焼き鳥屋がありまして、そこでライブがある日にハヤブサさんが来なかったんですよ。営業終わってから、店の店主がハヤブサさんの家に行ったら、亡くなっていたということなんです。

――その話は、ハヤブサさんが亡くなった状況について後にネットニュースで流れていました。

マンモス:僕としてはハヤブサさんの顔を見なければ納得いかなかったんです。翌日FREEDOMSの興行がありました。そこでハヤブサさんの所属事務所の方から「密葬にして、後日お別れ会を開きましょう」とご家族に提案したという話を雁之助さんから聞きました。実は雁之助さんが働いている熊本の介護施設の社長が、葬儀社も経営されていて、その方がハヤブサさんと雁之助さんの大学プロレス研究会の先輩なんですよ。

――そうなんですね!

マンモス:そこの社長が熊本から東京まで霊柩車のようなバンを手配して、東京でハヤブサさんの遺体を乗せることになってFREEDOMSの興行後に駆け付けたんです。するとハヤブサさんの前の奥さんと二人の娘さんもいて、そこでハヤブサさんに会わせてもらいました。熊本から霊柩車が到着して、ハヤブサさんの遺体が納められた棺を霊柩車に運ばせていただきました…。

――マンモス選手は亡くなったという噂を確かめるために、最終的には蒲田警察署まで行かれました、プロレスラーではマンモス選手だけだったんですか?

マンモス:僕だけでした…。

――大変恐縮なのですが、こんなことを言うべき立場じゃないかもしれませんが、今の話をお聞きして感じたことなのですが、ハヤブサさんがマンモス選手を蒲田警察署まで呼び寄せたんじゃないですか。会いに来てくれというハヤブサさんの願いというのでしょうか…。自分の意志は反して、何かに引き寄せられるように行動してしまうことって稀かもしれませんがあると思うんです。

マンモス:ハヤブサさんの前の奥さんも娘さんも一緒に送り出したのですが、奥さんも娘さんも悲しんでいましたね…。

――ハヤブサさんは事故で絶体絶命になっても必死にリハビリに励んで、プロレスラーとして生き続けてきました。「一生寝たきり」と言われた状態からスクワット150回できたり、杖歩行で約200メートルを歩くほど回復させました。1991年にデビューしたハヤブサさんは2001年に頸椎損傷の大怪我を負って、そこから15年リハビリ生活を送って亡くなりました。レスラーとしてリングに上がっている期間よりもリハビリしている期間も方が長いんですよ。

マンモス:そうですよね。本当にしんどかったと思います。精神力が凄いですよ。ハヤブサさんのライブとかも行かせてもらったりとか、LINEとかでやり取りしても、いつも昔話になるんですよ。「あれは楽しかったよね」とか。ハヤブサさんにとってFMWでプロレスラーとして闘っていた日々は宝物だったんでしょうね…。


ハヤブサさんとのエピソードを語るマンモスの目には光るものが見受けられた。あのリング上での事故で負った心の傷はまだ癒えているわけではない。彼はその傷をずっと背負って生きているのだろう。今回の所在でマンモスはハヤブサさんのTシャツを着用して挑んでいた。例えこの世にいなくても、ハヤブサさんの魂は不死鳥のごとく生き続けている。もちろんそれはマンモスの心の中にも…。

(第3回終了)

<インフォメーション>
マンモス佐々木選手が所属するプロレスリングFREEDOMSの日程等、詳細はプロレスリングFREEDOMS Webサイトをご覧ください

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写真提供/プロレスリングFREEDOMS

取材・文/ジャスト日本

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【ジャスト日本】 プロレスやエンタメを中心にさまざまなジャンルの記事を執筆。2019年からなんば紅鶴にて「プロレストーキング・ブルース」を開催するほか、ブログやnoteなどで情報発信を続ける。著書に『俺達が愛するプロレスラー劇場Vol.1』『俺達が愛するプロレスラー劇場Vol.2』『インディペンデント・ブルース』