伝説のインディー団体FMWの功績を選手や関係者の証言によって後世に語り継ぐ連載「俺達のFMW」。 最初の証言者は、プロレスリングFREEDOMSの"目覚めた猛獣"マンモス佐々木(以降はマンモスと形容)が登場。 …

伝説のインディー団体FMWの功績を選手や関係者の証言によって後世に語り継ぐ連載「俺達のFMW」。

最初の証言者は、プロレスリングFREEDOMSの"目覚めた猛獣"マンモス佐々木(以降はマンモスと形容)が登場。

マンモス佐々木(マンモス ささき)1974年7月23日大阪府大阪市出身 188cm 115kg 1997年12月8日デビュー 所属 プロレスリングFREEDOMS タイトル歴 WEWヘビー級王座、WEWハードコア王座、WEWタッグ王座。WEWハードコアタッグ王座、BJW認定タッグ王座、KING of FREEDOM WORLD TAG王座 得意技 29歳、アッサムボム ※プロレスリングFREEDOMSの重鎮。かつて伝説のインディー団体FMWで活躍。その実力はメジャーにも負けないインディー屈指の大怪獣。

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第3回となる今回は、エンターテインメントプロレスで大勝負を賭けたFMWが経営難により倒産。そこから悲劇の連鎖が沸き起こる中で、FMWというホームリングを失ったマンモス:に待ち受ける運命とは?あの時、修羅を受け止めるしかなかった猛獣は当時の過酷な現実を語り始めた。
――ハヤブサさんが大怪我を負い長期欠場に追い込まれてから二か月後の2001年12月9日・後楽園ホール大会でマンモス選手は、ミスター雁之助さん、金村キンタローさん、黒田哲広さんと組んで、WAR軍の天龍源一郎さん、冬木弘道さん、嵐(高木功)さん、北原光騎さんと8人タッグマッチで対戦し、場内が熱狂する名勝負を残しました。この試合について語っていただけますでしょうか。

マンモス:とにかく冬木さんがいつも対戦している冬木さんじゃなくて、「やれるものならやってみろ!」という雰囲気を出していて怖かったんですよ。

――冬木さんは新日本で全盛期の橋本真也さんと壮絶な喧嘩マッチを展開して、プロレスラーとしての株を上げたことがあって、実は喧嘩マッチが強い方なんですよね。

マンモス:冬木さんは強いですよ。あと天龍さんとこの試合で初対面だったんですが、試合前に後楽園ホールのトイレでバッタリ会ったんですよ。「お疲れ様です」と挨拶すると、天龍さんから「お前、東関部屋に顔を出しているのか?」と聞かれて、「いえ、顔を出していません」と答えると、「そうか、俺もだよ」と言われましたね。あの時は、東関部屋の兄弟子達の顔を思い出しましたね(笑)。

――東関部屋に所属していたマンモス選手は角界を去ってプロレスラーとして再出発されて、二所ノ関部屋に所属していた天龍さんは部屋の後継問題に巻き込まれて角界を去って、プロレスラーに転身しています。しかも三役一歩手前だったのに廃業されたんですよね。

マンモス:天龍さんは親方衆になれるところまでの地位にいた方ですから。僕は後に天龍さんの付き人を務めることになるのですが、天龍さんが「最後に勝ち越して辞めたのは俺の意地だよ」と語ったのがかっこよかったですね…。(1976年の秋場所で当時・東前頭13枚目だった天龍は8勝7敗で勝ち越して、角界を廃業している)

――それはプロレスリング・ノアで活躍した力皇猛さんも同じようなことを言っていたと思います。「天龍は本来ならば三役になれたのに、最後の場所を勝ち越して辞めたのが凄いんです」と。

マンモス:その通りですね。あと北原光騎さんが喧嘩プロレスという感じで怖かったです。試合中に正面から金的を蹴られたんですよ。「こんな感じでくるんだな」と。まぁ、この試合でのWAR軍の圧が凄くて、付け入るスキがなくて(笑)。

――確かにあの4人は最強でしたね。個人的にはFMW軍VS WAR軍の8人タッグマッチはFMW最後のベストバウトだったと思います。

マンモス:あの緊迫感は僕のレスラー人生の中でも数えるほどしかないですね。

――ここ数年の経営難、選手離脱、さらにエース・ハヤブサさんの長期離脱と逆風が吹き荒れたFMWは2002年2月15日に二度目の不渡りを出して倒産し、13年に及ぶ団体の歴史に幕を下しました。FMW崩壊という一報をマンモス選手はどこで知りましたか?

マンモス:僕は2月に総合格闘技の試合に出ることになっていて、出稽古でお世話になっていた和術慧舟會(多くのスター格闘家を輩出してきた総合格闘技道場)の東京道場で知りました。

――マンモス選手は2002年2月22日・後楽園ホールで開催された「THE BEST」(総合格闘技PRIDEの登竜門として誕生したイベント)で韓国のキム・ジョンワンと初のMMAルールで対戦することが決まっていました。試合9日前にFMW崩壊を知ったわけですね。

マンモス:これは言い訳になると思ってあまり語っていないんですが、「お前のところにも借金取りがくるかもしれないから気をつけろよ」という連絡があったんですよ。

――えええ!それはマズいですね!

マンモス:だから団体の件でこれ以上、和術慧舟會の皆さんにご迷惑をおかけしてはいけないので、出稽古には行きにくくなりました。あと僕はFMWを盛り上げるために、明るい話題を提供するために総合格闘技に出場を決意したのに、団体がなくなってしまった。何のために総合格闘技に出るのだろうかという思いがずっとありました。相撲をかじっているから感じたのかもしれませんが、プロレスと総合格闘技の世界はまるっきり違う世界で、そこで自分が残せるものは少ない。だから最悪引き分け、負けなければいいと思って総合格闘技に挑むつもりだったんです。でもこれじゃ、闘うテーマがないんですよ。

――確かにそうだと思います。

マンモス:作戦も考えていて、試合開始の立ち合いで、相撲のように土俵外に押し出す感じで圧力をかけていこうと思っていたんですけど、すぐに負けちゃったんですよ。(マンモスはキム・ジョンワン戦で1ラウンド25秒フロントチョークで絞められて敗退している)

――マンモス選手は結果的には秒殺されてしまいます。

マンモス:勝っても負けても最初で最後の総合格闘技だと思っていたのですが、モチベーションがない状況だったので、対戦相手のキム・ジョンワンさんにも失礼な気持ちをリングに上がってしまったというのはありますね。でも試合に向けて二カ月間ほどの練習は楽しくて、宇野薫選手とスパーリングしましたよ!あとスパーリングはしてませんが、高瀬大樹選手や岡見勇信選手とはスパーリングはしていませんが、道場に来られた際にお話もさせていただきました。総合の練習を積むようになると、周りから「短期間で強くなったよね」と褒められたのが嬉しくて、寝技とかも最後の方は極められなくて、上達できたと自信がついたんです。和術慧舟會の皆さんは本当に暖かく僕を迎え入れてくれました。

――プロレスラーとしても、ファイターとしても和術慧舟會での日々は成長に繋がったんですね。

マンモス:相撲部屋で稽古をつけてもらったような感じだったんですよ。一からみんなにぶつかって、スパーリングさせてもらって…。あと和術慧舟會東京道場を任されていた守山竜介さんには本当にお世話になりまして、FNW倒産した時に「もしうちの道場に借金取りが来ても、佐々木選手には関係ないことだと突っぱねるから、気にせずに練習においでよ」と言ってくださって…。

――守山さん、格闘技界でも知られている人格者ですからね。

マンモス:FMW末期には資金調達のために消費者金融や闇金にも手を出していたわけですし、自分が練習に行くことで真面目に頑張っている人達に迷惑をかけてはいけないという葛藤がありました。でも本当は毎日和術慧舟會の練習に参加したかったですよ。それくらい楽しかったんです。

――ありがとうございます。マンモス選手の総合格闘技戦前にFMWがなくなってしまったのですが、FMWに憧れて入門して、プロレスラーとなったマンモス選手は団体の崩壊についてどのように感じましたか?

マンモス:とにかくハヤブサさんに対する気持ちしかなかったです。どんな形でもいいからハヤブサさんが還ってくる場所を作らないといけないと…。そればっかりでしたね。FMW崩壊からWMF旗揚げまで半年間、何かしらスポンサーをしてくれた方はいたのですが、満足な生活はできなかったんです。でもハヤブサさんの居場所をつくらないといけない。自分だけのことを考えて、ハヤブサさんをほっとけないですよ。その頃に色々な団体から「うちに来てください」というオファーがあったのですが、断り続けてWMF旗揚げに参加しました。

――ここでお聞きしたいことがありまして、FMW崩壊後にひとつのプロモーションにまとまらずに、冬木弘道さんのWEW(冬木軍プロモーション)とミスター雁之助さんとハヤブサさんのWMFに分かれて旗揚げされたじゃないですか。マンモス選手は本来ならば冬木さん側と親交が深かったんですよね。

マンモス:それは言われましたね。WEWに行く金村さんにお世話になっていたので。でも僕はハヤブサさんとリングで対戦した最後の相手なんですよ。だからハヤブサさんが還ってくる場所を作って、いつかハヤブサさんが回復されて酒でも酌み交わるような時間ができたら…。その思いだけだったんです。だから冬木さん側には行きますとは言えなかったですね。

――FMW崩壊から三か月後の2002年5月16日に元社長の荒井昌一さんが自ら命を絶ってしまうという痛ましい訃報がありました。まず、荒井昌一さんはどのような方でしたか?

マンモス:荒井さんがFMW社長になった経緯はご存知ですか?

――荒井さんが書かれた「倒産! FMW」(徳間書店)とかを読ませていただくと本来なら高橋英樹さん(当時FMW営業部長)がなるという話があったのですが、高橋さんが断って代わりに荒井さんが社長になったということだったと思います。

マンモス:これは自分も聞いた話ですが、1995年に引退した大仁田さんから社長職を譲る時に声がかかった高橋さんが「俺はやりません」と断って、荒井さんが「やりますよ」ということで、荒井さんがFMW社長になったそうです。荒井さんは「やる」と決めたことは最後までやりきる真面目な人なんですよ。本当にいつも選手ファーストで動いてくれて…。最後の状況とかも聞きましたけど、荒井さんが持つ天性の人柄の良さを周りの人達が「社長さん」「社長さん」って利用していたんですよ。人から利用されて、ああいう立場にさせられたんだなと。あの人を利用した人はたくさんいますから。

――言葉がないですね…。いい人過ぎたのかもしれないですね。結果的に荒井さんは36歳の若さで亡くなってしまったんですよね。

マンモス:あの頃はいい歳した方だなと感じていたのですが、僕は荒井さんの歳を越えてしまっているんですよね。でも、30代とか会社のすべてを背負わされて、本当に寂しかったと思いますよ…。

――私は荒井昌一さんは社長とかではなく、プロレスに関わるビジネスマンとしては優秀な方だったと思うんですよ。本来ならばいきなり社長ではなく、段階を踏んでから社長になられていたら、もっと評価されていたはずなんですよ。だから荒井が亡くなったことは、プロレス界において大きな損失で、もったいなかったと思います。

マンモス:そうですね。自分達選手のギャラもきちんと出してくれて、そういうところ(消費者金融、闇金)から借りてでも払ってくれたのでしょうね。

――マンモス選手はFMW崩壊後に、姿を消した荒井さんと連絡を取られていたとお聞きしたのですが…。

マンモス:実は亡くなる数日前に荒井さんと電話で話しまして、「大きいことはしなくていいから、FMWというものを少しでもいいから、残った人達で何かやってほしい。それができたらすごく嬉しい」と言われたんですよ。荒井さんはFMW社長時代に背伸びして色々なことをされていてしんどかったというのがあるから、大きなことはしなくていいということを言われたと思います。これは僕が思うことですが、FMWでスカパー(スカイパーフェクTV)とディレクTVのどちらを選ぶのかという分岐点があったんです。それでFMWは巨大資本があったディレクTVを選んだのが運命の分かれ道だったのかなと。もしスカパーを選んでいたら別の道があったのかなと思いますね。(「倒産! FMW」によるとFMWは1998年にディレクTVと放映権料年間6000万円、興行演出経費2000万の3年契約を結んでいるという記述がある)

――もし、スカパーを選んでいたら自分たちの身の丈のあった形での”FMW”になったかもしれないですね。

マンモス:まったくその通りです。2000年にディレクTVが徹底しちゃったじゃないですか。ディレクTVからスカパーに移行した時に、契約内容が変わって放映権料も厳しいものになって、今までディレクTVでやっていたテレビ中継体制とエンターテインメントプロレスを維持するために費用の負担が大きくなったんですよ。これが団体の寿命を縮めてしまったのかなと思いますね。

(第3回 後編に続く)

<インフォメーション>
マンモス佐々木選手が所属するプロレスリングFREEDOMSの日程等、詳細はプロレスリングFREEDOMS Webサイトをご覧ください

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プロレスリングFREEDOMS Twitter
写真提供/プロレスリングFREEDOMS

取材・文/ジャスト日本

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【ジャスト日本】 プロレスやエンタメを中心にさまざまなジャンルの記事を執筆。2019年からなんば紅鶴にて「プロレストーキング・ブルース」を開催するほか、ブログやnoteなどで情報発信を続ける。著書に『俺達が愛するプロレスラー劇場Vol.1』『俺達が愛するプロレスラー劇場Vol.2』『インディペンデント・ブルース』