40年前の1981年11月22日、きっと多くの競馬ファンは愕然としただろう。世界と日本の差は、こんなにもあるのかと。 この日、第1回となる競馬のGⅠジャパンカップ(東京・芝2400m)が行なわれた。結果は、外国馬の上位独占。掲示板(5着以…

 40年前の1981年11月22日、きっと多くの競馬ファンは愕然としただろう。世界と日本の差は、こんなにもあるのかと。

 この日、第1回となる競馬のGⅠジャパンカップ(東京・芝2400m)が行なわれた。結果は、外国馬の上位独占。掲示板(5着以内)はすべて見慣れぬ馬名が占めたのだ。勝ったのは、アメリカから来たメアジードーツ。本国でのGⅠ勝利はなく、決して一流馬とは言えない存在だった。しかし、この新設GⅠで日本のトップクラスをなぎ倒したばかりか、レコードタイムのおまけまでつけたのである。



97年、世界最強馬を相手に最後まで接戦を演じたエアグルーヴ(左)

 いまでこそ日本馬が海外レースで勝ち、ジャパンカップはもはや日本馬の独壇場となっているが、当時はそれほど世界との差が顕著だったのである。実際、1981年からの10年間、日本馬は2勝しかできなかった(1984年カツラギエース、1985年シンボリルドルフ)。

 そんなジャパンカップだからこそ、敗れた馬の中にも、世界の強豪と渡り合った「語り継ぐべき馬」がたくさんいる。最近では競走馬を擬人化した「ウマ娘」がブームだが、その人気キャラを見ても、ジャパンカップで涙をのんだ名馬が多数いるのだ。

 そこでこの記事では、ジャパンカップで敗れながらもすばらしい走りを見せた馬たちを、ウマ娘の視点から振り返りたい。

 最初に取り上げるのは、1988年のジャパンカップ。この年、世界最高峰のレースと称されるフランスの凱旋門賞を勝ったトニービンが参戦。それを迎え撃ったのが日本のタマモクロスだった。

 ウマ娘のタマモクロスは、ケンカっ早く気の荒いキャラだが、小さい頃に苦労した経験もあり、お世話になった人に恩返しをしたい気持ちが強い。これは、実際のタマモクロスに噛みつき癖があり、また同馬の活躍前に、生産牧場が経営難で倒産したことに由来する。そのほか、ニックネームの「白いイナズマ」は、同馬の父シービークロスがそう呼ばれていたことから、タマモクロスもこの呼称が次第に定着した。

 成績も、稲妻のようだった。デビューからしばらくはくすぶっていたが、4歳秋(現3歳。以下旧齢表記で統一)から1年にわたり怒涛の8連勝を飾ったのだ。条件クラスにいた馬が、1年後にはGⅠを立て続けに3つ制していた。しかも、当時圧倒的な強さを誇っていた年下のオグリキャップを下してである。

そんなタマモクロスが世界を迎え撃ったのが、1988年ジャパンカップ。その年の凱旋門賞馬トニービンを抑えての1番人気だった。

 レースでは後方から3〜4コーナーでポジションを上げたタマモクロス。父譲りの白い馬体が直線半ばで先頭に立つ。トニービンは伸びない(※後にレース中の故障が判明)。外から迫るオグリキャップも抑え込む。まさに横綱相撲だった。

 しかし内から一頭、この白い馬体に並びかけた馬がいた。アメリカのペイザバトラーだ。豪快なジョッキーのアクションに応えて、タマモクロスに競り勝ったのだった。

 タマモクロスは他馬に並ばれると闘志をむき出しにするタイプだったが、このレースでは、終始ペイザバトラーがタマモクロスから離れた進路を選択した。相手もタマモクロスの性格を熟知していたのである。悔しい結果だったが、日本のエースとして確固たる力を見せてくれた。

 その翌年、今度はタマモクロスのライバルであるオグリキャップがこの舞台で躍動した。オグリキャップはご存知の通り、前年に地方競馬から中央へ殴り込み快進撃を見せた馬。タマモクロスとも激闘を繰り広げ、このライバル関係もウマ娘に反映されている。

 そして1989年のジャパンカップ。タマモクロスが引退したこの年は、オグリキャップが度肝を抜く走りを見せた。

 というのも、オグリキャップは1週間前のGⅠマイルCS(京都・芝1600m)を勝ったばかり。それもバンブーメモリーとデッドヒートを繰り広げるという過酷なものだった。

 競馬ではレース間隔を2〜3週間取るのが一般的。2週連続で出走することを「連闘」というが、GⅠの連闘など前代未聞だった。

 しかし、オグリキャップはとてつもない走りを披露した。道中4番手から直線に入ると、ニュージーランドのホーリックスと一騎打ちに。2週連続のGⅠデッドヒートは、クビ差でホーリックスに軍配が上がった。それでも、ファンにとってはオグリキャップのすごさが際立っただろう。

 何より驚くべきは走破タイム。ホーリックスとオグリキャップが叩き出した2分22秒2は、当時の世界レコードだったのである。負けてなおこれほど伝説を残すのは、やはりオグリキャップの持つスター性かもしれない。

 ジャパンCも創設から10年をすぎると、日本馬と外国馬が互角に渡り合うケースも増えてきた。そんな時代は、レースを制した日本馬に一層スポットが当たりがちだが、負けた中にも思い出深い馬が多数いる。

 たとえば1995年、2着に敗れたヒシアマゾンだ。ウマ娘では「女傑」とよばれ、後方からの追い込みを得意とする彼女。現役時代のヒシアマゾンもまさにそのままで、牡馬と牝馬の力量差が大きかった当時、牡馬に混じって互角のレースを見せた。

 そんな勇ましい彼女が本領発揮したのもこのレースだった。同い年であり、1番人気に推された「シャドーロールの怪物」ナリタブライアンが直線で伸び悩む中、後方から猛然と追い込み、ドイツダービーをはじめ海外GⅠ6勝の実績を誇るランドに襲いかかる。最後は1馬身半及ばなかったが、女傑の猛々しさを見せたレースだった。

 女傑だけではない。「女帝」も、この舞台で意地を見せた。1997年に2着となったエアグルーヴである。

 ウマ娘では才色兼備の完璧なキャラとして描かれるエアグルーヴ。現役時代もまさにその通りで、このジャパンカップの前には、牝馬ながらGⅠ天皇賞・秋(東京・芝2000m)を制していた。

 そしてこの年、海外から強敵がやってきた。世界各国のビッグレースを走り、積み上げたGⅠタイトルは5つ。凱旋門賞でも2年連続2着に入っていたピルサドスキーである。

 まさに世界トップの実力馬が東京にやってきたのだ。そんな馬と直線で一騎打ちを演じたのがエアグルーヴだった。

 このレースでも盤石のレース運びを見せた「女帝」。盟友・武豊のエスコートのもと、先行策から直線で満を持して抜け出す。まさに100点の競馬だった。

 しかし、世界の名馬はここからが本領。やはり外国人ジョッキー特有の大きなアクションに応えると、エアグルーヴの内に潜り込んで一気に前に出る。女帝も簡単には譲らない。必死に抵抗するが、ピルサドスキーは1度奪った先頭の座を最後まで譲らなかった。エアグルーヴは、クビ差届かず2着に敗れたのである。

 間違いなく世界レベルのマッチレースだった。そして、そんなレベルの走りを見せたエアグルーヴは、この時代の競馬ファンにとって誇りだったに違いない。

 世界対日本。そんな図式のジャパンカップを見られる機会は減ったが、日本馬同士の名勝負が生まれていることも事実。ダービーと同じ舞台で行なわれる秋のGⅠ。勝者だけでなく、敗者にも拍手が送られるような、そんなレースを期待したい。